震となり、海嘯が起った。倒壊した主なものは政庁、鶴岡若宮、大慈寺、建長寺であったが、建長寺からは火が起った。その時の死者は二万三千余であったと言われている。王朝時代のことは判らないが、これによって見ても鎌倉は昔から地震の呪いのある土地であるらしい。
三 天正の災変、慶長の地震
鎌倉幕政時代の末期、即ち後醍醐天皇の即位の前後から吉野時代、室町時代、安土桃山時代にかけては、戦乱に次ぐに戦乱を以てして、日本全国戦争の惨禍に脅かされて、地震の記録も閑却せられていたかの観があるが、それでも慶長のはじめにかけて約六百回の地震の記録がある。
正中二年十月と言えば、後醍醐天皇が、藤原資朝、藤原俊基等の近臣と王政の復古を謀《はか》って、その謀《はかりごと》の泄《も》れたいわゆる正中の変の起った翌月のことであるが、その二十一日に、山城、近江の二箇国に強震があって、日吉八王子の神体が墜ち、竹生島が崩れた。そして元弘元年七月には、紀伊に大地震があって、千里浜の干潟が隆起して陸地となり、その七日には駿河に大地震があって、富士山の絶頂が数百丈崩れた。この七月は藤原俊基が関東を押送せられた月で、「参考太平記」には、「七月七日の酉の刻に地震有りて、富士の絶頂崩ること数百丈なり、卜部宿禰《うらべのすくね》大亀を焼いて卜《うらな》ひ、陰陽博士占文を開いて見るに、国王位を易《か》へ、大臣災に遇ふとあり、勘文の面穏かならず、尤も御慎み有るべしと密奏す」とあって、地震にも心があるように見える。
正平年間は非常に地震の多い年で、約百回も地震の記録があるが、そのうちで大きかったのは、五年五月の京都の地震で、祇園神社の石塔の九輪が墜ちて砕けた。十六年六月には山城をはじめ、摂津、大和、紀伊、阿波の諸国に大地震があって、摂津、阿波には海嘯《つなみ》があった。そして最後の二十四年七月にも京都に大地震があって、東寺の講堂が傾いた。それから応永年間も地震の多い年で、約八十回にわたる記録が見える。そのうちで七年十月には伊勢国に大地震があって、京都の地も震うた。三十二年十一月には京都ばかりの大地震があった。
永享五年一月には、伊勢、近江、山城に、同年九月には相模、陸奥、甲斐に、宝徳元年四月には山城、大和に、文正元年四月には山城、大和に、明応三年五月にはやはり大和、山城に大地震があったが、明応三年五月の地震
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