ている余裕のないことを知っている老婆は、どうも其処と思うこともできなかった。
(まあ、いい、いずれ判るろうから、判った時に礼を云うとして、お爺さんにあげて置いて、後で戴くとしよう)
老婆はあがって餅の椀を持って次の室へ往き、其処の仏壇に供えて、庖厨《かって》の竈《へっつい》の前へ戻り、肥った体を横坐りにして、茶釜から冷たい茶を汲んで飲んだ。腓の張りは何時の間にか忘れていた。彼女は小半時も其処に坐ってから、やっと夕飯の準備《したく》にかかった。微暗くなった竈《へっつい》の下には、火がちょろちょろと燃えた。
里芋が煮え、茶が沸いた。老婆は里芋を皿へ盛って仏壇の前へ往き、それをさっきの餅と並べて供え、その並びの棚から油壺を執って、瓦盃《かわらけ》に注ぎ、それから火打石でこつこつと火を出して灯明をあげ、それがすむと前に坐って念仏をはじめた。
老婆の前には、黄濁色の顔をしたお爺さんが来て立っていた。そして、お勤めがすむと、老婆の心は餅に往った。老婆は餅も喫ってみたければ、初物の里芋も喫ってみたかった。
(餅は寝しなに喫おう、今、喫っては旨くないから)
老婆は庖厨へ戻って、行灯を点け、その灯で夕飯の箸を執った。そして飯がすむと、膳をかたづけて、室《へや》の隅から練った麻と、小さな桶を持って来て、麻を紡ぎはじめた。小さくへいで捻りあわせた麻糸は、順じゅんにその桶の中へ手繰り込まれた。
老婆は時どき降りて裏口にある便所へ往った。暗い中に虫の声が聞えていた。うすら寒い風が襟元を撫でてさびしかった。彼女は何時の間にかお爺さんのことを思い出していた。
お爺さんは亡くなる日まで、何かと云えば口癖のように離縁する離縁すると云っていた。その詞がお婆さんの耳に蘇生《よみがえ》っていた。
何時かも己《じぶん》の里に紛擾が起ったので、それへ往っていて夜になって帰って来ると、膳|前《さき》の酒を一人で飲んでいたお爺さんが、
「どちらへお出でになっておりました」
と、嘲るように云った。老婆が黙っていると、
「云えなかろう、云えないて、俺の家へ嫁入って来たからには、俺の家の者じゃ、いくら身内に何があろうとも、一応俺の許しを受けてから往くのが順当じゃ、黙って往くと云う法はない」
と、お爺さんは双手を一ぱいに張って見せる。
「花嫁で耻かしいから、云わざったわよ」
と、老婆が嘲り返す。お爺さ
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