かし世高は、そんな児戯に類する讖文を信ずることはできなかった。彼は夜の明けるのを待ちかねるようにして起き、そこそこに飯をすまして、断橋の施十娘の店へ往った。
店では老婆が品物を並べていたが、終ってひょいと顔をあげたひょうしに、店頭へ来た世高を見つけた。
「相公《だんな》、お早いじゃありませんか、何か御用でもできたのですか」
「お婆さんに頼みたいことがあってね」
世高は店の内へ入った。老婆はどんなことを頼まれるだろうと、その頼まれることが気になってたまらないというようにして顔を持ってきた。
「私に、どんなことです、か、ね」
「すこし頼みたいことがあって、ね」
世高は懐から金を出して、それを老婆の袖の中にすばしこく入れた。それは二錠の銀子であった。
「お婆さん、私はまだ妻室《かない》がないから、媒人《なこうど》をたのみたいが」
老婆には世高の眼ざしている者が何人《だれ》であるかということはすぐ判った。しかし、それは旅にいる無名の秀才では望みを満たすことのできないものであった。老婆はとぼけて言った。
「相公の頼みたいというのは、どこの姐姐《むすめ》さんですか」
「それかね、それは、昨日お婆さんが話してくれた、あの、劉さんの姐姐さんだよ」
世高はきまりがわるいのできれぎれに言った。
「そいつは相公、だめですよ、他の姐姐さんなら、なんとか話を纏めますが、劉さんの方ですと、劉の相公はいっこくですから、杭州の城内の武官の中で、だんだん申しこんでおりますが、しょうちしないのです、それに旦那は旅の方でしょう、とてもだめですよ」
老婆はそう言って世高の入れた袖の中の銀子を取りだした。
「これはお返しします、とてもできませんから」
「ま、まってください、まだ一つお話しすることがあるから、それを訊いてからにしてください」
世高は老婆の金を持った手を押えるようにして、その口を老婆の耳の傍へ持っていった。
「お婆さん、私がこんなことをいうのは、お嬢さんを知らずに言ってるんじゃないのです、昨日ここへくる前に、あの家の中へ往って、庭を見物していると、お嬢さんが楼《にかい》の上にいて、私を見て、おや綺麗な方だわと言ったのです、だからお嬢さんも私を知ってるはずです、そっとお嬢さんに遇って、そんなことがあったかないかを確かめたうえで、私もお嬢さんのことを思っているということを言ってください
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