後ろへ逃げようとした。そのはずみに足を踏みはずして、そのまま壑の中へ墜《お》ちて行った。
杜陽は意識が回復してきた。彼は眼を開けた。大きな樹の幹が微暗《うすぐら》い中に見えていた。彼は自分は壑の中へ墜ちたが運好く死なずにいるな、と思いだした。そう思うと彼の心に喜びが湧いてきた。余裕のできたその心には、虎に噛まれようとしていた僕のむごたらしい姿も映ってきた。
杜陽は体を起そうとした。体の下には朽葉が木綿《もめん》の厚い蒲団を敷いたように柔かく積み重なっていて、突いた手に力が入らなかった。彼は注意して起きながら、この朽葉の上へ墜ちたから怪我もしなかったのだと思った。
杜陽は四辺《あたり》に眼をやった。大木がいちめんに生えて下の方は微暗かったが、梢の方の枝と枝との間には明るい空があって、そそり立った山の尖《とが》りが見えていた。枝には風があった。杜陽はどうして道のある処へ出たものだろうと思って注意した。其処は険しい切り断った瓶の底のような壑の底で、翅《はね》のないかぎりあがって往くというようなことは想像にも及ばなかった。彼が折角無事であったことを喜んだのも束の間の喜びであった。
四辺が一層暗くなってきた。杜陽はおどろいて梢のほうを見た。陽が暮れて碧い空が燻《くす》ぼり、山の尖りももう見えなかった。其処には一つの石が犬の蹲《うずくま》ったように朽葉の中から頭をだしていた。彼はその石へ崩れるように腰をかけた。
風が凪いでしまって渓河《たにがわ》の音が耳についてきた。杜陽は起きあがった。彼は其処にいるにしても猛獣毒蛇の恐れがあった。往くとしたなら猛獣毒蛇の恐れのうえに断崖絶壁の恐れがあったが、しかしそれには径《こみち》を見つけ、人家を見つけるという万一を僥倖せられないこともなかった。
杜陽はとぼとぼ朽葉の上を踏んで往った。燈の光のような光がちらちらと樹の間から見えた。赤味を帯びたほっかりしたその光は、燈の光より他の光ではないと思った。彼は甦ったように喜んで歩いた。
林の樹はすぐなくなって燈の光がはっきり見えてきた。其処は四辺がきれいに開けていた。燈の光は其処に人家の塀らしいものをぼんやりと映しだした。
杜陽は真直に歩いて往った。大きな邸宅の門が見えて、その燈の光の出ている門傍の小座敷もはっきり見えてきた。彼は行商をして往き暮れて時どきそうした家へ宿を取っている
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