もうとおりにならないことであった。曾はそこで今こそその思いをとげることができると思って、頭だった数人の僕《げなん》をやって、無理にその家へ金をやった。女はすぐ籐の輿に乗って曾の許《もと》へ来た。それは昔見た時と較べて一段の艶を増していた。曾はもう自分が望んでいたことでその望みの達しられないものはなかった。
 数年したところで、朝廷の官吏の中に窃《ひそか》に曾の専横を非議する者があるようであったが、しかし、それぞれ自分のことを考えて口に出すものはなかった。曾もまたおもいあがって、それに注意しなかった。龍図学士包《りゅうとがくしほう》という者があって上疏した。その略には、
「窃におもんみるに曾某は、もと一飲賭の無頼、市井の小人、一言の合、栄、聖眷《せいけん》を膺《う》け、父は紫《し》、児は朱《しゅ》、恩寵極まりなし。躯《からだ》を捐《す》て頂を糜《び》し、もって万一に報ずるを思わず、かえって胸臆《きょうおく》を恣《ほしいまま》にし、擅《ほしいまま》に威福を作《な》す。死すべきの罪、髪を擢《ぬ》きて数えがたし。朝廷の名器、居《お》きて奇貨をなし、肥瘠《ひそう》を量欠《りょうけつ》して、価の重軽をなす。因って公卿将士、尽く門下に奔走す。估計※[#「夕/寅」、第4水準2−5−29]縁《こけいいんえん》、儼《げん》として負販《ふはん》の如く、息を仰ぎ塵を望む、算数すべからず。或は傑士賢臣、肯《うなず》いて阿附《あふ》せざる有《あ》れば、軽ければ則《すなわ》ち之を間散《かんさん》に置き、重ければ則ち褫《うば》いてもって氓《みん》を編す。甚しきは且つ一|臂袒《ひたん》せざれば、輒《すなわ》ち鹿馬の奸に※[#「二点しんにょう+午」、第4水準2−89−82]《あ》いて、遠く豺狼《ひょうろう》の地に竄《ざん》せられ、朝士之がために寒心す。また且つ平民の膏腴《こうゆ》、肆《ほしいまま》に貪食するに任す。良家の女子、強いて禽妝《きんしょう》を委して、※[#「さんずい+診のつくり」、184−16]気冤氛《れいきえんふん》、暗く天日無し。奴僕《どぼく》一たび到れば、則ち守令顔を承《う》け、書函一たび投ずれば、則ち司院法を枉《ま》ぐ。或は廝養《しよう》の児、瓜葛《かかつ》の親有れば則ち伝に乗じ、風行雷動す。地方の供給|稍《やや》遅くして、馬上の鞭撻立所に至る。人民を荼毒《とどく》し、官府を奴隷にし、扈従臨むところ野に青草無し。而して某|方《まさ》に炎々赫赫、寵を怙《たの》みて悔ゆるなく、召対《しょうたい》方《まさ》に闕下《けつか》に承け、萋斐《せいひ》輒《すなわ》ち君前に進む。委蛇《いい》才《わずか》に公より退けば、笙歌已に後苑に起る。声色狗馬《せいしょくくば》、昼夜荒淫、国計民生、念慮に存ずるなし。世上|寧《むし》ろ此の宰相有らんや。内外|駭訛《がいか》、人情|洶々《きょうきょう》、若し急に斧※[#「金+質」、185−5]《ふしつ》の誅を加えずんば、勢必ず操莽《そうぼう》の禍を醸成せん。臣夙夜《しんしゅくや》祗《つつし》み懼れ、敢て寧処《ねいしょ》せず。死を冒して列款《れつかん》し、仰いで宸聴《しんちょう》に達す。伏して祈る奸佞の頭《かしら》を断ち、貪冒《たんぼう》の産を籍し、上は天怒《てんど》を回し、下は輿情を快にせんことを。如《もし》果して臣の言|虚謬《きょびゅう》なれば、刀鋸鼎※[#「金+護のつくり」、第3水準1−93−41]《とうきょていかく》、即ち臣が身に加えよ、云々」と言ってあった。
 上奏は終った。曾はそれを聞いて顫えあがった。それはちょうど冰水《ひょうすい》を飲んだように。しかし幸いに天子は心にゆとりのある方であったから、宮中に留め置いて発表しなかった。継いで吏部戸部礼部兵部刑部工部の給事中、各道の監察御吏、及び九卿が、それぞれ曾の罪悪を上奏弾劾した。
 そこで昨日まで門口に来てお辞儀をして、曾をかりの父親と呼んでいたような者も、顔をそむけるようになった。朝廷では天子の旨を奉じて曾の家を没収して、曾を雲南軍に往かせることにした。曾の子の任は平陽の太守であったが、もう人をやって吟味をさしてあった。曾は家を没収せられ雲南軍にやられるということを聞かされて驚きおそれていると、やがて数十人の剣を帯び戈《ほこ》を操った武士が来て、そのまま内寝《いま》へ入って曾の衣冠を褫《は》いで、妻といっしょに縛った。みるみるうちに数人の人夫が財宝を庭に出しはじめた。金銀銭紙幣数百万、真珠|瑪瑙《めのう》の類数|百斛《ひゃくこく》、幕《まく》、簾《すだれ》、榻類これまた数千事。そして児《こども》の襁褓《おむつ》や女の※[#「焉」の「正」に代えて「臼」、186−4]《くつ》などは庭や階段にちらばって見えた。曾は一いちそれを見て悲しみもだえた。また不意に一人の者が曾の愛
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング