かすかに聞えていた。水の上には霞がかかってあるかないかの波が緩《ゆる》く画舫にからんでいた。その時美しい女があってその画舫の窓を啓《あ》けてそこに憑《もた》れながら四辺《あたり》を眺めた。梁は画舫の中へ目をやった。一人の少年が股《あし》を重ねて坐り、その傍に十五六の美しい女がいて、少年の肩をもんでいた。梁は楚の襄王《じょうおう》のような貴人であろうとおもったが、それにしては従者がひどくすくなかった。梁は眸を凝らしてじっと見た。それは幼な友達の陳明允であった。
「陳君じゃないか」
梁は覚えず体を舟の欄《てすり》に出して大声に言った。陳は梁の呼ぶ声を聞いて、棹を罷《や》めさして水鳥の象《かたち》を画いた舳に出て、梁を迎えて舟をやった。舟の中には喫いあらした肴が一ぱいあって、酒の匂いがたちこめていた。陳はすぐ言いつけてそれをさげさしたが、間もなく美しい侍女が三五人来て、酒をすすめ茗《ちゃ》を烹《に》た。そこに山海の珍味が並べられたが、まだ一度も見たことのないものであった。梁は驚いて言った。
「十年見ざるまに、どうしてこんなに富貴になったかね」
陳は笑って言った。
「君は依然として窮措大《きゅうそだい》だね、まだ世に出ることができないね」
梁は言った。
「さっき、君と酒を飲んでいたのは、何人だね」
陳は言った。
「僕の家内だよ」
梁はまたそれを不思議に思った。梁は言った。
「一家を伴れて何所へ往くのだ」
陳は言った。
「西の方へ往こうとしているのだ」
梁は再び訊こうとした。陳は急に侍女に命じて歌を歌って酒をすすめさした。陳の一言が畢《おわ》るか畢らないかに、音楽の声が舟をゆるがすように起った。歌の声と笙や笛の音が入り乱れて騒がしくなって、もう話も笑声も聞くことができなかった。梁は美しい女が[#「女が」は底本では「女を」]前に満ちているのを見て、酔に乗じて言った。
「明允公、僕に一人美人を贈らないかね」
陳は笑って、
「足下は大いに酔ったな、しかし、いいとも、一人の美しい妾を買う金を昔のよしみに贈ろう」
と言って、侍女に命じて明珠を一つ持ってこさして、梁に贈った。
「緑珠でも購《あがな》えないことはないよ」
そこで陳は梁に別れをうながして言った。
「すこし忙しいことがある、旧友と長くいっしょにいられないのは残念だ」
梁を送って舟に返し、もやいを解いて往っ
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