と寤《さと》った。そこで気がおちついたので居間へ入ろうと思っていくと、周の弟はその貌《かおかたち》が異っているので通さなかった。周もまた自分で自分を証明することができないので、馬に乗り下男を伴《つ》れて成を尋ねていった。
 数日にして周は労山に入った。すると騎《の》っていた馬の足が疾《はや》くなって下男は随《つ》いていくことができなかった。馬は飛ぶようにいってやがて一本の樹の下に止った。そこには黄巾※[#「敞/毛」、第3水準1−86−46]服の道士がたくさん往来していた。そのうちの一道士が周に目をもって来た。そこで周は、
「成道士のいる所はどこでしようか。」
 といって問うた。道土は笑っていった。
「成道士から聞いている。上清宮にいるようだよ。」
 道士はそう言うなりすぐに離れていった。周はそれを見送った。その道士はすぐその先で向うから来た道士と何か二言三言《ふたことみこと》交えてからいってしまった。初めの道士と言葉を交えていた道士がやっと近くに来た。それは同窓の友の一人であった。同窓の友は周を見て愕《おどろ》いていった。
「数年逢わなかったね。人に聞くと、君は名山に入って道を学んでるといってたが、やっぱり人間《じんかん》にいるのかね。」
 周は同窓の友が成とまちがえていることを知ったのでそのわけを話した。同窓の友は驚いていった。
「じゃ、僕が今|遇《あ》ったのだ。僕は君とばっかり思ってた。いってから間がないから、まだ遠くへはいかないだろう。」
 周は不思議でたまらなかった。周はいった。
「そうかなあ。じゃ僕も遇っている。自分で自分の面《かお》のわからないはずはないがなあ。」
 そこへ下男がおっついて来た。周は馬を飛ばして彼の道士のいった方へといったが影も形も見えなかった。そこは一望寥闊《いちぼうりょうかつ》としたところであった。周は進退に窮してしまった。帰ろうとしても帰る家はなかった。周はとうとう意を決して成をどこまでも追っていくことにしたが、そのあたりは険岨《けんそ》で馬に騎《の》っていくことができないので、馬を下男にわたして帰し、独りになって、うねりくねった山路を越えていった。
 遥かに見ると一|僮子《どうし》の坐っている所があった。周は上清宮のある所を聞きたいので急いでその側《そば》へいって、
「これから上清宮のある所へは、何里位あるかね。僕は成道士を尋ねていく者だが。」
 といって故《わけ》を話した。すると僮子は、
「私は成道士の弟子でございます。」
 といって、代って荷物を荷い、路案内をしてくれたが、星飯露宿《せいはんろしゅく》、はるばるといって三日目になってやっとゆき着いた。そこは人間《じんかん》にあるいわゆる上清宮ではなかった。季節は十月の中頃であるのに、花が路に咲き乱れて初冬とは思われなかった。
 僮子が入っていって、
「お客さまがお出でになりました。」
 といった。すると遽《にわか》に成が出て来て、己《おのれ》の形になっている周の手を執《と》って内へ入り、酒を出して話した。
 そこには綺麗《きれい》な羽のめずらしい禽《とり》がいて、人に馴《な》れていて人が傍へいっても驚かなかった。その鳴く声は笛の音のようであったが、時おり座上《ざしき》へ入って来て鳴いた。周はひどくふしぎに思いながらも若い細君のことをはじめ世の中のことが心に浮んで来て、いつまでもそこにいようというような意《こころ》はなかった。
 そこには二枚の蒲団《ふとん》があった。二人はそれを曳《ひ》きよせて並んで坐っていたが、夜がふけていくに従って心がすっかり静まった。その時周はうとうとしたが、それと共に自分と成とが位置を易《か》えたような気がした。周はふしぎに思って頷《あご》をなでてみた。そこには髭の多い故《もと》の自分の頷があった。周は安心した。
 朝になって周は帰りたくなったので成にいった。成は固く留《と》めて返さなかった。三日すぎてから成がいった。
「今晩はすこし寝るがいいだろう。明日は早く君を送ろう。」
 周は成の言葉に従って睡《ねむ》ったところで、成の声がした。
「仕度《したく》ができたよ。」
 そこで周は起きて旅装を整えて成について出発した。周は成のいった道をゆかず他の道をいった。二人は暗い中をすこしいったかと思うと、もう故郷の村であった。成は路ばたに坐って周に向い、
「ひとりで帰るがいい。」
 といった。周は成を伴れていきたかったが、強《し》いてもいえないので独りで家の門を叩《たた》いた。返事をする者もなければ起きて来る者もなかった。周はそこで牆《かき》を越えて入ろうと思った。と、自分の体が木の葉の飛ぶようになって一躍《ひととび》に牆を越えることができた。垣はまだ二つ三つあった。周はその垣も越えて自分の寝室の前へといった。寝室の中には燈
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