要はない。」
そこで成は都に向って出発した。周の弟が餞別《せんべつ》しようと思っていってみると、成はもう出発してかなり時間が経っていた。
やがて成は都に着いたが控《うったえ》をする手がかりがない。どうしたならいいだろうかと思っていると、天子が御猟《ごりょう》にいかれるという噂が伝わって来た。成は木市《きば》の材木の中に隠れていて、天子の車駕《しゃが》の通り過ぎるのを待ちうけ直訴した。
成の直訴はおとりあげになって、車駕を犯した成自身の身もそれぞれの手続の後にさげられ、上奏を経て周の罪を再審することになったが、その間が十ヵ月あまりもかかったので、周はすでに無実の罪に服して辟《つみ》につけられることになっていた。ところで天子の御批《ぎょひ》がくだったので、法院ではひどく駭《おどろ》いて、ふたたび罪をしらべなおすことになった。黄吏部もそれには駭いて周を殺そうとした。黄吏部は典獄に賄賂《わいろ》をおくって周に飲食をさせないようにした。そこで典獄は周の弟が食物を持って来ても入れることを許さなかった。それがために成が法院へいって周の無実の罪であることをいって、再審を始めてもらったときには、周は飢餓のために起つことができないようになっていた。法院の長官は怒って典獄を打ち殺させようとした。黄吏部は怖《おそ》れて村役人に数千金をおくったので、それでいいかげんなことになり、村役人は法を枉《ま》げた典獄ばかりを流刑にした。そして周は放たれて還《かえ》って来たが、それからはますます成と肝胆《かんたん》を照らした。
成は周の裁判がすんでから、世の中に対して持っていた望みが灰のようにこなごなになったので、周を伴《つ》れて隠遁《いんとん》しようと思って、ある日、それを周にすすめた。周は若い後妻の愛に溺《おぼ》れて、成のいうことを人情に迂《うと》いつまらないことだといって一笑に付した。成はそれ以上何も言わなかったが、その意《こころ》はきちんときまっていた。
成はそれから還っていったが数日経っても姿を見せなかった、周は使を成の家へやった。成の家には成はいずに家の者は周の所にいることとばかり思っていたといった。そこで始めて皆が疑いだしたが、周は成の心の異っていたことを知っているので、人をやって成のいそうな寺や山を偏《あまね》く物色《ぶっしょく》さすと共に、時どき金や帛《きぬ》をその子に恤《めぐ》んでやった。
八、九年してから成が忽然《こつぜん》として周の所へ来た。それは黄な巾《ずきん》を冠《かぶ》り鶴の羽で織った※[#「敞/毛」、第3水準1−86−46]《しょう》を着た、巌壁の聳《そび》えたったような道士姿であった。周は大いに喜んで臂《うで》を把《と》っていった。
「君はどこへいってた。僕はどんなに探したかわからないよ。」
成は笑っていった。
「僕は狐雲野鶴《こうんやかく》だ、どこときまった所はないが、君と別れた後も幸に頑健《がんけん》だったよ。」
周は酒を出して二人で飲みながら別れた後のできごとなどを話し、成に道士の服装を易《か》えさせようとしたが、成は笑うだけでこたえなかった。周はそこでいった。
「馬鹿だなあ。君はなぜ細君《さいくん》や子供を敝《やぶ》れ※[#「尸+徙」、第4水準2−8−18]《くつ》のように棄《す》てたのだ。」
成は笑っていった。
「そうじゃないよ。向うから人を棄てようとしているのだ。こっちから人を棄てやしないよ。」
周は問うた。
「ではどこに棲《す》んでる。」
成は答えた。
「労山《ろうざん》の上清宮だよ。」
そのうちに夜になったので二人は寝台を並べて寝たが、夢に周は成が裸になって自分の胸の上に乗っかったので息ができないようになった。周はふしぎに思って、
「何をするのだ。」
といったが成はわざと返事をしなかった。と、周の眼が寤《さ》めた。そこで周は、
「おい、成君。」
と呼んだが返事がない。周は坐って手さぐりに索《さぐ》ってみたが、どこへいったのか沓《よう》としてわからなかった。暫くしてから周は始めて自分が成の寝台で寝ていることに気がついた。周は駭《おどろ》いていった。
「そんなに酔ってもいなかったのに、なぜこんなに顛倒《てんとう》したのだろう。」
そこで家の者を呼んだ。家の者が来て火を点《つ》けた。周の容貌は変じて成となっていた。周はもと髭《ひげ》が多かった。周は手をやって頷《あご》をなでてみた。そこには幾莖《すうほん》の髭が踈《まば》らに生えているのみであった。周は鏡を取って自分で顔を照してみた。そこには成の顔があって自分の顔はなかった。
「おや、成の顔がある。俺はぜんたいどこへいったのだろう。」
周はあきれて鏡を見ていたが、まもなくこれは成が幻術を以て自分を隠遁《いんとん》させようとしているためだろう
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