可愛くないのか、何故そんな馬鹿な真似をする、しつかりおし、すぐ癒してやるから、」
省三は玄関の方へ走つて行つて先つき自分が脱ぎ捨てたままである駒下駄を急いで履いて格子戸を開け、締めずに引いてあつた雨戸を押しのけるやうに開けて外へ出た。
「やあ、山根君ぢやないか、」
と、向ふから来た者が声をかけた。省三は走らうとする足を止めた。
「何人だね、」
それは野本と云ふ仲間の文士であつた。
「野本君か、野本君、君に頼みがある、家内がすこし怪しいから、急いで医者を呼んで来てくれないかね、此所を出て、右に五六軒行つたところに、赤い電燈の点いた家がある。かかりつけの医者だから、僕の名を云へばすぐ来てくれる、」
「どうしたんだ、」
「馬鹿な真似をして、なにか飲んだやうだ、」
「よし、ぢや、行つて来る。君は気をつけてゐ給へ、」
野本は走つて行つた。それと一緒に省三も家の中へ走り込んだ。
細君は両手をついて腹這ひになりひつくり反つたコツプの上から黄ろなどろどろする物を吐いてゐた。
「吐いたか、吐いたなら大丈夫だ、」
省三は急いで台所へ這入つて行つて手探りに棚にあつた飯茶碗を取つてバケツの水を掬ふて持つて来た。
「水を持つて来た。この水を飲んでもすこし吐くが好い、」
省三は蹲んでその水を細君の口の傍へ持つて行つた。細君はその茶碗を冷やかな眼で見たなりで口を開けなかつた。
「何故飲まない、飲んだら好いぢやないか、飲まんといけない、飲んで吐かなくちやいかんぢやないか、」
省三は無理に茶碗を口に押しつけた。水がぽとぽととこぼれたが細君は飲まなかつた。
「お前は子供が可愛くないのか、何故飲まない、」
がたがたとそそつかしい下駄の音がして野本が入つて来た。
「先生はすぐ来る、どうだね、大丈夫かね、」
「吐いた、吐いた。吐いたから大丈夫だと思ふんだ、」
「吐いたのか。吐いたら好い、」
野本は傍へ来て立つた。
「奥さんどうしたんです、大丈夫ですから、しつかりしなさい、」
細君の顔は野本の方へと向いた。その眼にはみるみる涙が一ぱいになつた。
「野本君、僕が水を飲まして吐かさうとしても、飲まない。君が飲ましてくれ給へ、」
省三は手にした茶碗を野本の前に出した。
「そんなことはなからうが、僕で好いなら、僕が飲ましてやらう、」
野本はその茶碗を持つて蹲んだ。
「奥さん、どんなことがあるか知りませんが、山根君に悪いことがあるなら、私が忠告します、おあがりなさい、飲んで吐くが好いんです、」
細君はその水を飲み出した。省三はその傍へ坐つて悲痛な顔をしてそれを見てゐた。
赤ら顔の医者が薬籠を持つてあがつて来た。医者は細君の傍へ行つて四辺の様をぢつと見た。
「吐きましたね、」
「吐いてます。まだ吐かしたら好いと思つて、今この茶碗に一杯水を飲ましたところです、」
野本は手にしてゐた茶碗を医者に見せた。
「それは大変好い、」
医者は今度は細君の方を向いて云つた。
「奥さん、大丈夫ですよ。御心配なさらないが好いんですよ、」
細君は声をあげて泣き出した。
「先生、お恥しいです、」
省三はやつとそれきり云つて眼を伏せた。
「どれくらいになりますか、」
「私が気が付いて、まだ二十分ぐらいしかならんと思ひますが、」
「さうですか、」
医者は薬籠を開け小さな瓶を出してそれを小さな液量器に垂らした。
「水を持つて来ませうか、」
野本が云つた。
「さうですね、すこしください、」
野本は茶碗を持つて台所の方へ行つたがやがて水を汲んで帰つて来た。
医者はその水を液量器の中に垂らして細君の口元に持つて行つた。細君は泣きじやくりしながらそれを飲んだ。
「これで大丈夫だから、静にしてゐてください、」
かう云つて医者が眼をあげた時には省三の姿はもう見えなかつた。
七
省三はその翌日の夕方利根川の支流になつた河に臨んだ旅館の二階に考へ込んでゐた。
「関根さん、お連様が見えました、」
関根友一は省三がこの旅館で用ゐてゐる変名であつた。省三は不思議に思ふて女中の声のした方を見た。昨日の朝銚子で別れた女が女中の傍で笑つて立つてゐた。女は派手な明石を著てゐた。
「吃驚なすつたでせう、なんだかあなたが此所へいらつしやるやうな気がしたもんですから、昨日の夕方の汽車で引きあげて来たんですよ、」
女は笑ひ笑ひ這入つて来た。
省三と女とは土手を下流の方へ向いて歩いてゐた。晴れた雲のない晩で蛙の声が喧しく聞えてゐた。
「いよいよ舟に乗る時が来ましたよ、」
女が不意にこんなことを云つた。省三はその意味が判らなかつた。
「なんですか、」
「舟に乗る時ですよ、」
省三はどうしても合点が行かなかつた。
「舟に乗る時つて、一体こんな所に勝手に乗れる舟がありますか、舟に乗るなら、宿へでもさう云つて拵へて貰はなくちや、」
「大丈夫ですよ。私が呼んでありますから、」
「本当ですか、」
「本当ですとも、其所をおりませう、」
川風に動いてゐる丈高い草が一めんに見えてゐて路らしいものがそのあたりにあると思はれなかつた。
「おりられるんでせうか、」
「好い路がありますよ、」
省三は不思議に思ふたが女が断言するので土手の端へ行つて覗いた。其所に一巾の土の肌の見えた路があつた。
「なるほどありますね、」
「ありますとも、」
省三は先にたつてその路をおりて行つた。螢のやうな青い光が眼の前を流れて行つた。
「螢ですね、」
「さあ、どうですか、」
黄ろな硝子でこしらへたやうな中に火を入れたやうな舟が一艘蘆の間に浮いてゐた。
「をかしな舟ですね。ボートですか、」
「なんでも好いぢやありませんか、あなたを待つてる舟ですよ、」
そんな邪慳な言葉を省三はまだ一度も女から聞いたことはなかつた。彼は女はどうかしてゐると思つた。
「お乗りなさいよ、」
「乗りませう、」
省三は舟を近く寄せようと思つて纜を繋いである所を見てゐると舟は蘆の茎をざらざらと云はして自然と寄つて来た。
「お乗りなさいよ、」
「綱は好いんですか、」
「好いからお乗りなさいよ、」
省三は舟のことは女が精しいから云ふ通りに乗らうと思つてそのまま乗り移つた。舟の何所かに脚燈を点けてあるやうに足許が黄ろく透して見えた。
「いよいよ乗せたから、持つてお出でよ、」
女はかう云ひながら続いて乗つて胴の間に腰をかけて省三と向き合つた。女の体は青黄ろく透きとほるやうに見えた。
「皆でなにをぐづぐづしてゐるんだね。早く持つてお出でよ、」
省三は体がぞくぞくとした。と、舟は発動機でも運転さすやうに動き出した。
「この舟は一体なんです。変ぢやありませんか、」
「変ぢやありませんよ、」
「でも、機械もなにもないのに動くぢやありませんか、」
「機械はないが、沢山の手がありますから、動きますよ、」
「え、」
「今に判りますよ、ぢつとしてゐらつしやい、」
「さうですか、」
女は大きな声を出して笑ひ出した。省三は怖る怖る女の顔に眼をやつた。黄ろな燃えるやうな光の中に女の顔が浮いてゐた。
「なにをそんなに吃驚なさいますの、」
女の首は左に傾いて細かい沢山ある頭の毛が重さうに見えた。それは前橋の女の顔であつた。
「わツ、」
省三は怖しい叫び声をあげて逃げようとして舟から体を躍らした。
二日ばかりして山根省三の死骸は若い女の死体と抱き合つたままでその川尻の海岸にあがつて細君の手に引き取られたが、女の身元は判らないのでそれはその土地の共同墓地に埋められたと云ふことが二三の新聞に書かれた。
底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社
2003(平成15)年10月22日初版発行
初出:「黒雨集」大阪毎日新聞社
1923(大正12)年10月25日
入力:川山隆
校正:門田裕志
2009年8月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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