は来なかつた、彼は手紙の来ないのはすぐ今日にでも来るつもりだから、それでよこさないのだらうと思ひ出して散歩にも出ずに朝から待つてゐたが、その日もたうとう来もしなければ手紙もよこさなかつた。
 彼はそれでも手紙の来ないのはすぐ来られる機会が女の前に見えてゐるからであらうと思つてその翌日も待つてみたが、その日もたうとう本人も来なければ手紙も来なかつた。彼は待ち疲れて女の行つてゐる学校の傍を二時頃から三時頃にかけて暑い陽の中を歩いてみたが、その学校から沢山の女が出て来ても彼の女の姿は見えなかつた。
 彼はまた檜物町の女の棲んでゐると云ふ家の前を彼方此方してみたがそれでも女の姿を見ることは出来なかつた。しかし隣へ行つて女の様子を聞く勇気はなかつた。
 その内に一箇月あまりの日がたつてからもう諦めてゐた彼の女の手紙が築地の病院から来た。それは怖しい手紙であつた。女は彼の翌日から急に発熱して激烈な関節炎を起し左の膝が曲つてしまつたゝめに入院して治療をしたが、熱は取れたけれども関節の曲りは依然として癒らないから一両日の内に退院して故郷の前橋へ帰つた上で何所かの温泉へ行つて気長く養生することになつてゐる明日は午後は父も来ないからちよつと逢ひに来てくれまいかと云ふ意味を鉛筆で走り書きしたものであつた。
 彼は鉄鎚で頭を一つガンとなぐられたやうな気持でその手紙を握つてゐた。彼は一時のいたづら心から処女の一生を犠牲にしたと云ふ慚愧と悔恨とに閉されてゐたが心の弱い彼はたうとう女の所へ行けなかつた。
 女からはすぐまたどうしても一度お眼にかゝりたいから[#「かゝりたいから」は底本では「かゝかりたいから」]、都合をつけて来てくれと云ふ嘆願の手紙が来たがそれでも彼は行けなかつた。行けずに彼は悶え苦しんでゐた。女から明日の晩の汽車でいよ/\出発することになつたから父親がゐても好いから屹と来てくれと云つて来た。そして汽車の時間まで書いて病院まで来てくれることが出来ないならせめて停車場へなり来てくれと書き添へてあつた。
 心の弱い彼はその望みも達してやることが出来なかつた。そして二三日して汽車の中で書いたらしい葉書が来た。それには、(先生さやうなら、永久にお暇乞ひを致します、)と書いてあつた。
 それから二日ばかりしての新聞に前橋行きの汽車の進行中乗客の女が轢死したと云ふ記事があつた。…………
「先生、先生、」
 黙然と考へ込んでゐた省三はふと顔をあげた。薄暗くなつた室の中に色の白い女が坐つてゐてそれが左の足をにじらして這ふやうに動いた。と、青い光がきらりと光つて電燈がぱつと点いた。
 室には何人もゐなかつた。省三はほつとしたやうに電燈を見なほした。
 廊下に足音がしてはじめの女中が入つて来た。女中は手に桃色の小さな封筒を持つてゐた。
「お手紙が参りました、」
 省三は桃色の封筒を見て好奇心を動かした。
「何所から来たんだらう、持つて来たのかね、」
「俥屋が持つて参りました、」
 省三は手紙を受け取りながら、
「俥屋は待つてゐるかね、」
 と云つて裏を返して差出人の名を見たが名はなかつた。
「お渡しゝたら好いと云つて、帰つてしまひました、」
「さうかね、誰だらう、今日の委員か有志かだらうか、」
 それにしては桃色の封筒が不思議であると思ひながら静に開封した。罫のあるレターペーパーに万年筆で書いた女文字の手紙であつた。省三はちらと見たばかりで女中の顔を見て、
「よし、有難う、」
「お判かりになりましたか、」
「あゝ、」
「では、また御用がありましたら、お呼びくださいまし、」
「有難う、」
 女中が出て行くと省三は手紙の文字に眼をやつた。それはその日公会堂に来て彼の講演を聞いた身分のあるらしい女からであつた。彼はその手紙を持つたなりに女の身分を想像しはじめた。彼の心はすつかり明くなつてゐた。

          三

 省三は好奇心から八時十分前になると宿を出て運河が湖水に入つてゐる土手の上へと出かけて行つた。其所には桃色の封筒の手紙をよこした女がゐることになつてゐた。
 宵に一時間ばかり闇をこしらへて出た赤い月があつた。それは風のない春のやうな夜であつた。二人連の労働者のやうな酔つぱらひをやり過して、歩かうとして右側を見ると赤いにじんだやうな行燈が眼についた。それは昔泊つたことのある旅館の行燈であつた。しかし彼はその行燈に対して何の感情も持たなかつた。
 彼は甘い霞に包まれてゐるやうな気持になつてゐた。路の右側にある小料理屋から三味線が鳴つてその音と[#「その音と」は底本では「その昔と」]一緒に女の声も交つて二三人の怒鳴るやうな歌が聞えてゐたが彼の耳には余程遠くの方で唄つてゐる歌のやうにしか思へなかつた。
 微白いぼうとした湖の水が見えて右側に並んでゐた人家がなくなつた。もう運河が湖水へ這入つた土手が来たなと思つた。其所には木材を積んだり[#「積んだり」は底本では「積んだリ」]セメントの樽のやうな大樽を置いたりしてあるのが見える。彼は二三年前の事業熱の盛んであつた名残りであらうと思つた。
 月に雲が懸つたのかあたりが灰色にぼかされて見えた。省三は東になつた左手の湖の中に出つ張つた丘の上を見た薄黄いろな雲が月の面を通つてゐた。
「先生、山根先生ではございますまいか、」
 女が眼の前に立つてゐた。面長な白い顔の背の高い女であつた。
「さうです、私が山根ですが、」
「どうも相済みません、私は先つき手紙を差しあげて、御無理を願つた者でございます、」
「あなたですか、」
「はい、どうも御迷惑をかけて相済みません、ですが、今日、先生の御講演を伺ひまして、どうしても先生にぢき/\お眼にかゝりたくてかゝりたくて、仕方がないもんですから、先生のお宿を聞き合して、お手紙を差しあげました。まことに済みませんが、ちよつとの間でよろしうございます、私の宅へまでお出でを願ひたうございます、」
「何方ですか、」
 女はちよつと後をふり返つて丘の端へ指をさした。
「あの丘の端を廻つた所でございますが、舟で行けば十分ぐらゐもかゝりません、」
「舟がありますか、」
「えゝ、ボートを持つて来てをります、」
「あなたがお一人ですか、」
「えゝ、さうですよ、お転婆でせう、」
 女は艶やかに笑つた。
「さうですね、」
 省三はちよつと考へた。
「女中と爺やより他に、何も遠慮する者はをりませんから、」
「さうですね、すぐ帰れるなら参りませう、」
「すぐお送りします、」
「では、参りませう、」
「それでは、どうか此方へ、」
 女が先になつてアンペラの俵を積んである傍を通つて土手へ出た。其所には古い船板のやうなものを斜に水の上に垂らしかけた桟橋があつてそれが水と一緒になつたところに小さな鼠色に見えるボートが浮いてゐた。
「あれでございますよ、滑稽でせう、」
「面白いですな、」
 省三は桟を打つて滑らないやうにしたその船板の上を駒下駄で踏んでボートの方へおりて行つた。船板はゆら/\と水にしなつて動いた。ボートは赤いしごきのやうなもので繋いであつた。
「そのまゝずつとお乗りになつて、艫へ腰をお懸けくださいまし、」
 省三はボートに深い経験はないがそれでも女に漕がして見てゐられないと思つた。
「あなたが先へお乗りなさい、私が漕ぎませう、」
「いゝえ、このボートは、他の方では駄目ですから、私が漕ぎます、どうかお乗りくださいまし、」
 省三は女の云ふ通りにして駒下駄を脱いでそれを右の手に持ちやつとこさと乗つたが、乗りながら舟が揺れるだらうと思つて用心して体の平均を取つたが舟は案外動かなかつた。
 続いて女が胴の間に乗り移つた。その拍子に女の体にしめた香水の香が省三の魂をこそぐるやうに匂ふた。省三は艫へ腰をおろしたところであつた。
 女の左右の手に持つた二本の櫂がちら/\と動いてボートは鉛色の水の上を滑りだした。月の光の工合であらうか舟の周囲は強い電燈を点けたやうに明るくなつて女の縦模様のついた錦紗のやうな派手な羽織が薄い紫の焔となつて見えた。
「私が代りませうか、女の方よりもすこし力がありますよ、」
 省三は眩しいやうな女の白い顔を見て云つた。女はそれを艶やかな笑顔で受けた。
「いえ、私はこのボートで、毎日お転婆してますから、楊枝を使ふほどにも思ひませんわ、」
「さうですか、では、見てをりませうか、」
「四辺の景色を御覧くださいましよ、湖の上は何時見ても好いものでございますよ、」
 女は左の方へちよつと眼をやつた。省三も女の顔をやつた方へ眼をやらうとしてすぐ傍の水の上に眼を落してから驚いた。この周囲の水の上は真黒な魚の頭で埋まつて見えた。それは公園や社寺の池に麩を投げた時に集つて来る鯉の趣に似てゐるがその多さは比べものにならなかつた。魚は仲間同士で抱きあつたり縺れあつたりするやうに水をびちや/\と云はして体を搦ましあつた。
「鯉でせうか、」
 省三は眼を見張つた。
「そんなに騒ぐものぢやありませんよ、静になさいよ、お客さんがびつくりなさるぢやありませんか、」
 女は魚の方を見てたしなめるやうに云つた。省三の耳にはその女の言葉が切れ/″\に聞えた。省三は女の顔を見た。
「このボートで行つてると、湖の魚が皆集つて来るのでございますよ。でも、あまり多く集つて来るのも煩いではございませんか、」
「鯉でせうね、私はこんな鯉をはじめて見ましたね、この湖では鯉をとらないでせうか、」
「とりますわ、この湖で鯉をとつて生活してゐる漁夫は沢山ありますわ、」
「さうですか、そんなに鯉をとつてるのに、こんなに集つて来るのは、鯉も大変ゐるんですね、」
「先生をお迎へするために集つたのでせうが、もう、帰しましたよ、」
 省三は水の上を見た。今までゐた鯉はもうゐなくなつて鉛色の水がとろりとなつてゐた。
「もう、ゐなくなつたでしよ、ね、それ、」
 省三は呆気に取られて水の上を見てゐた。と一尾の二尺ぐらいある魚が浮きあがつて来てそれが白い腹をかへして死んだやうに水の上に横になつた。
「死んだんでせうか、あの鯉は、」
「あれは、先生に肉を御馳走した鯉でございますわ、」
「えツ、」
「いゝえ、先生は、今晩宿で鯉こくを召しあがつたでございませう。このあたりは、鯉が多うございますから、宿屋では、朝も晩も鯉づくめでございますわ、」
 女はかう云つて惚れ惚れする声を出して笑つた。

          四

 省三は眼が覚めたやうに周囲を見まはした。青みがかつた灯の燭つた室で自分は黒檀の卓を前にして坐つてゐてその左の側に女が匂ひのあるやうな笑顔をしてゐた。
「私は、どうして此所へ来たでせう、」
 省三はボートの中で鯉の群と死んだやうな鯉の浮いて来たのを見てゐる記憶があるばかりで、舟からあがつたことも路の上を歩いたこともその家の中へ這入つて来たこともどう云ふものかすこしも判らなかつた。
「私と一緒にずんずんお歩きになりましたよ、よく夜なんか、知らないところへ参りますと、狐に撮まれたやうにぼうとなるものでございますわ。本当に失礼致しました。こんな河獺の住居のやうな所へお出でを願ひまして、」
「どう致しまして、静かな、湖に臨んだ理想的なお住居ですね、」
 省三はその家の位置が判つたやうな気になつてゐた。
「これから寒くなりますと、締つきりにしなくてはなりませんが、まだ今は見晴しがよろしうございますわ、」
 女は起つて行つて省三から正面になつた障子を開けた。障子の外は小さな廊下になつてそれに欄干がついてゐたがその欄干の先には月がぼかされた湖の水が漂渺としてゐた。
「すぐ水の傍ですね、実に理想的だ、歌をおやりでせうね、」
 省三は延び上るやうに水の上を見ながら云つた。女は障子へ寄つかかるようにして立つてゐた。
「真似事を致しますが、とても駄目でございますわ、」
「そんなことはないでせう。かう云ふ所にゐらつしやるから、」
「いくら好い所にをりましても、頭の中に歌を持つてをりません者は、駄目でございますわ、」
 女はかう云つて笑ひ声を立てたがそのまま体の向きをか
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