て笑いをこらえながら、
「私は玉皇《ぎょくこう》の女《むすめ》です、母は知りません。」
 といって真《ほんとう》のことはいわなかった。それから間もなく王侍御は京兆尹《けいちょういん》に抜擢せられた。年はもう五十あまりになっていた。王はいつも孫のないのを患《うれ》えていた。小翠は王の家へ来てからもう三年になっていたが、元豊とは夜よる榻《ねだい》を別にしていた。夫人はその時から元豊の榻をとりあげて、小翠の榻に同寝《ともね》させるようにした。
 ある日、小翠は室で湯あみをしていた。元豊がそれを見て一緒に湯あみをしようとした。小翠は笑い笑いそれを止めて、湯あみをすまし、その後で熱い煮たった湯を甕《かめ》に入れて、元豊の着物を脱ぎ、婢に手伝わして伴れていってその中へ入れた。元豊は湯気に蒸《む》されて苦悶しながら大声を出して出ようとした。小翠は出さないばかりか衾《やぐ》を持って来てそのうえからかけた。
 間もなく元豊は何もいわなくなった。衾をとって見るともう死んでいた。小翠は平気で笑いながら元豊の屍《しかばね》を曳《ひ》きあげて牀《とこ》の上に置き、体をすっかり拭いて乾かし、またそれに被《よぎ》を着せた。夫人は元豊の死んだことを聞いて、泣きさけびながら入って来て罵った。
「この気ちがい、なぜ私の子供を殺した。」
 小翠は笑っていった。
「こんな馬鹿な子供は、ない方がいいじゃありませんか。」
 夫人はますます怒って、小翠にむしゃぶりついて自分の首を小翠の首にくっつけるようにした。婢達はなだめなだめ曳き別けようとした。そうしてやかましくいってるうちに、一人の婢がいった。
「若旦那様が呻《うな》ってますよ。」
 夫人は喜んで泣くことをやめて元豊を撫《な》でた。元豊は微《かす》かに息をしていたが、びっしょり大汗をかいて、それが※[#「ころもへん+因」、第4水準2−88−18]褥《しとね》まで濡らしていた。食事する位の時間をおいて汗がやんだところで、元豊は忽ち目をぱっちり開《あ》けて四辺を見た。そして家の人をじっと見たが、見おぼえがないようなふうであった。元豊はいった。
「私は、これまでのことを思ってみるに、すべて夢のようです。どうしたのでしょう。」
 夫人はその言葉がはっきりして今までの馬鹿でないから、ひどく不思議に思った。父の前へ伴《つ》れていって試めしてみたが、生れかわったようになっているので、不思議な宝を得たように大喜びをした。そこで夫人は元豊から取りあげてあった榻《ねだい》を故《もと》の処へ還《かえ》して、更めて寝床をしつらえて注意していた。元豊は自分の室へ入ると婢を出した。朝早くいって覘《のぞ》いてみると榻を空にして小翠の室にいっていた。それから元豊の病気は二度と起らなかった。元豊と小翠は夫婦の間がいたって和合して、影の形に随うがようであった。
 一年あまりして王は給諌の党から弾劾《だんがい》せられて免官になった。王の家に一つの玉瓶《ぎょくへい》があった。広西|中丞《ちゅうじょう》が小さな過失があって譴責《けんせき》を受けた時に賄賂《わいろ》として贈って来たものであった。それは千金の価があった。王はそれを出して当路《とうろ》の者に賄賂に贈ろうとしていた。小翠はそれが好きで平生|玩《いじ》っていたが、ある日それを取り堕《おと》して砕いてしまった。小翠は自分の過《あやまち》を慙《は》じて王夫妻の前へいってあやまった。王はちょうど免官になって不平な際であったから怒って口を尖《とが》らして罵《ののし》った。小翠も怒って元豊の所へいっていった。
「私があなたの家を援《すく》ったことは、一つの瓶《かめ》位ではありません。なぜすこしは私の顔もたててくれないのです。私は、今、あなたに真《ほんとう》のことをいいます。私は人ではありません。私の母が雷霆《らいてい》の劫《ごう》に遭って、あなたのお父様の御恩を受けましたし、また私とあなたは、五年の夙分《しゅくぶん》がありましたから、母が私をよこして、御恩返しをしたのです。もう私達の宿願は達しました。私がこれまで罵られ、はずかしめられてもいかなかったのは、五年の愛がまだ盈《み》たなかったからですが、こうなってはもうすこしもいることはできません。」
 小翠は威張って出ていった。元豊は驚いて追っかけたがもうどこへいったか見えなかった。王は茫然《ぼうぜん》とした。そして後悔したがおっつかなかった。元豊は室へ入って、小翠の化粧の道具を見て、またしても小翠にいかれたのが悲しくなって、泣き叫んで死のうとまで思った。彼は寝ても睡られず食事をしても味がなかった。彼は日に日に痩せていった。王はひどく心配して、急に後妻を迎えてその悲しみを忘れさせようとしたが、元豊はどうしても忘れなかった。そこで上手な画工《えかき》に小翠の像を画かして、夜も昼もそれに祷《いの》っていた。
 幾《ほと》んど二年位してのことであった。元豊は故《わけ》があって他村へいって夜になって帰っていた。円い明るい月が出ていた。村の外《はずれ》に王の家の亭園があった。元豊は馬でその牆《へい》の外を通っていたが、中から笑い声が聞えるので、馬を停《とど》め、従者に鞍《くら》をしっかり捉えさしてその上にあがって見た。そこには二人の女郎《むすめ》が戯れていた。ちょうどその時月に雲がかかったので、どんな者とも見わけることができなかった。ただ一方の翠《みどり》の着物を着た女のいう声が聞えた。
「お前をここから逐《お》いだすわよ。」
 すると一方の紅《あか》い着物を着た女がいった。
「あなたは、私の家の庭にいながら、だれを逐いだすというのです。」
 翠の着物の女はいった。
「お前はお嫁になることもできないで、おんだされたのを羞《は》じないの。まだ人の家の財産を自分の所有《もの》にしているつもりなの。」
 紅い着物の女はいった。
「姉さんは、ひとりぼっちでいる者に勝とうとしているのですね。」
 その紅い着物の女の声を聴くとひどく小翠に似ているので、急いで大声でいった。
「小翠、小翠。」
 翠の着物の女はいってしまった。いく時紅い着物の女にいった。
「暫く喧嘩するのを待とうね。お前の男が来たのだから。」
 紅い着物の女がもう来た。思ったとおりそれは小翠であった。元豊はうれしくてたまらなかった。小翠を垣の上にのぼらして、手をかしておりてこさした。小翠はいった。
「二年お目にかからないうちに、ひどくお痩せになりましたね。」
 元豊は小翠の手を握って泣いた。そして思いつめていたということをいった。小翠はいった。
「私もよくそれを知っていたのですが、ただお宅へは帰れないものですから、今、姉と遊んでましたが、またこうしてお目にかかるのも、因縁ですね。」
 元豊は小翠を伴《つ》れて帰ろうとしたが、小翠はきかなかった。それではこの亭園にいてくれというと承知した。そこで従者をやって夫人に知らした。夫人は驚いて轎《かご》に乗ってゆき、鑰《かぎ》を啓《あ》けて亭に入った。小翠は趨《はし》っていって迎えた。夫人は小翠の手を捉《と》って涙を流し、力《つと》めて前の過《あやまち》を謝した。
「もし、前のことを気にかけないでいてくれるなら、一緒に帰っておくれでないかね。私も年をとったし。」
 小翠ははげしい言葉でそれを断った。夫人はそこで田舎の荒れた寂しい亭園に二人でいるのは不便だろうと思って、多くの奴婢をつけておこうとした。女はいった。
「私はそんなたくさんな人の顔を見るのはいやです。ただ前の二人の婢と、外に年とった下男を一人、門番によこしてくださいまし。その外には一人も必要がありません。」
 夫人は小翠のいうなりになって、元豊に頼んでその亭園の中で静養さすことにし、毎日食物を送ってよこした。
 小翠はいつも元豊に、別に結婚せよと勧めたが、元豊は承知しなかった。
 一年あまりして小翠の容貌や音声がだんだん変って来た。元豊はいつか画《か》かした小翠の像を出して見くらべた。が、別の人のようであるからひどく怪しんだ。女はいった。
「私は今と昔とどうなっているのです。」
 元豊はいった。
「今も美しいことは美しいが、昔に較べると及ばないようだな。」
 小翠はいった。
「それは私が年とったからでしょう。」
 元豊はいった。
「二十歳あまりで、どうして急に年をとるものかね。」
 小翠は笑ってその画を焚《や》いた。元豊はそれを焚かすまいとしたが、もうあらあらと燃えてしまった。
 ある日小翠は元豊に話していった。
「昔、お宅にいる時に、お母様が私を死ぬるような目に逢わせましたから、私にはもう子供が生れません。今、御両親がお年を召していらっしゃるのに、あなたが一人ぼっちでは、私に子供はできないし、あなたの血統がたえるようなことがあっては大変です。お宅へ奥さんをお連れになって、御両親のお世話をさし、あなたは両方の間を往来なさるなら、不便なこともないじゃありませんか。」
 元豊はそれをもっともだと思った。そこで幣《ゆいのう》を鍾太史《しょうたいし》の家へ納れて婚約を結んだ。その結婚の式が近くなったところで、小翠は新婦のために衣装から履物までこしらえて送ったが、その日になって新婦が元豊の家の門を入ると、その容貌から言語挙動まで、そっくり小翠のようになって、すこしもかわらなかった。元豊はひどく不思議に思って亭園へいって見た。小翠はもうどこへかいっていった所が解らなくなっていた。婢に訊くと婢は紅《あか》い巾《てふき》を出していった。
「奥さんは、ちょっとお里へお帰りになるとおっしゃって、これをあなたにおあげしてくれと申しました。」
 元豊が巾をあけてみると玉※[#「王+夬」、第3水準1−87−87]《ぎょくけつ》を一枚結びつけてあった。元豊はもう心に小翠が二度と返って来ないということを知った。そこでとうとう婢を伴れて家に帰った。元豊はすこしの間も小翠を忘れることはできなかったが、幸いに小翠そっくりの新婦の顔を見ると小翠を見るようで心が慰められた。そこで元豊は始めて鍾氏との結婚を小翠が予《あらかじ》め知っていて、先ずその容貌を変えて、他日の思いを慰めてくれるようにしてくれてあったということを悟った。



底本:「聊斎志異」明徳出版社
   1997(平成9)年4月30日初版発行
底本の親本:「支那文学大観 第十二巻(聊斎志異)」支那文学大観刊行会
   1926(大正15)年3月発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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