きないので、そこで元豊を杖で敲《たた》いた。元豊は大声をあげて啼き叫んだ。すると小翠が始めて顔の色を変えて膝を折ってあやまった。それで夫人の怒りもすぐ解けて元豊を敲くことをやめていってしまった。小翠は笑って泣いている元豊を伴《つ》れて室《へや》へ入り、元豊の着物の上についた塵を払い、涙を拭き、敲かれた痕をもんでやったうえで、菓《かし》をやったので元豊はやっと笑い顔になった。
 小翠は戸を閉めて、また元豊を扮装《ふんそう》さして項羽《こうう》にしたて、呼韓耶単于《こかんやぜんう》をこしらえ、自分はきれいな着物を着て虞《ぐ》美人に扮装して帳下の舞を舞った。またある時は王昭君《おうしょうくん》に扮装して琵琶を撥《ひ》いた。その戯れ笑う声が毎日のようにやかましく室の中から漏れていたが、王は馬鹿な悴が可愛いので嫁を叱ることができなかった。そこで聞かないようなふりをして、そのままにしてあった。
 同じ巷《まち》に王と同姓の給諌《きゅうかん》の職にいる者がいた。王侍御の家とは家の数で十三、四軒隔っていたが、はじめから仲がわるかった。その時は三年毎に行うことになっている官吏の治績を計って、功のある者は賞し、過のある者は罰する大計の歳に当っていたが、王給諌は王侍御の河南道を監督していることを忌《い》みきらって、中傷《ちゅうしょう》しようとした。王侍御はその謀《くわだて》を知ってひどく心配したがどうすることもできなかった。ある夜王侍御が早く寝た。小翠は衣冠束帯《いかんそくたい》して宰相に扮装したうえに、白い糸でたくさんなつくり髭《ひげ》までこしらえ、二人の婢に青い着物を着せて従者に扮装さして、廐《うまや》の馬を引きだして家を出、作り声をしていった。
「王先生にお目にかかろう。」
 馬を進めて王給諌の門口までいったが、そこで鞭《むち》をあげて従者を敲《たた》いていった。
「わしは王侍御にお目にかかるのじゃ、王給諌に逢うのじゃない。あっちへいけ。」
 そこで馬を回して帰った。そして家の門口へ来たところで、門番は真《ほんとう》の宰相と思ったので、奔っていって王侍御に知らした。王侍御は急いで起きて迎えに出てみると、小翠であったからひどく怒って夫人にいった。
「人が、わしのあらをさがしている時じゃないか。これでは家庭がおさまらないということで中傷せられる。わしの禍《わざわい》も遠くはない。」
 夫人は怒って小翠の室へ走り込んでいってせめ罵《ののし》った。小翠はただ馬鹿のように笑うのみで弁解しなかった。夫人はますます怒ったがまさか敲くこともできないし、また出そうにも家がないので出すこともできなかった。夫妻は嫁を怨《うら》みもだえて一晩中睡らなかった。
 その当時宰相は権勢が非常に盛んであったが、その風采《ふうさい》は小翠の扮装にそっくりであったから、王給諌も小翠を真の宰相と思った。そこでしばしば王侍御の門口へ人をやってさぐらしたが、夜半になっても宰相の帰っていく気配がなかった。王給諌はそこで宰相と王侍御とが何かもくろんでいると思ったので不安になり、翌日早朝、王侍御に逢って訊いた。
「昨夜宰相があなたの所へいったのですか。」
 王侍御は王給諌がいよいよ自分を中傷しようとするしたがまえだと思ったので、慙《は》じると共にひどく恐れて、はっきりと返事をすることができなかった。王給諌の方では王侍御が言葉を濁すのは確かに宰相がいって何かもくろんでいるから、王侍御を弾劾《だんがい》してはかえって危険であると思って、弾劾することはとうとうやめてしまい、それから王侍御に交際を求めていくようになった。王侍御はその情を知って心に喜んで、そしてひそかに夫人にいいつけて、小翠に行いを改めるように勧めさした。小翠は笑ってうなずいた。
 翌年になって宰相は官を免ぜられた。ちょうどその時、秘密の手紙を王侍御に送って来た者があったが、それが誤って王給諌の許へ届いた。王給諌はひどく喜んで、その秘密の手紙を種に王侍御を恐喝《きょうかつ》して金を取るつもりで、先ず王侍御と仲の善い者にその手紙を持っていかして一万の金を仮らした。王侍御はそれを拒んで金を出さなかった。そこで王給諌が自分で王侍御の家へ出かけていった。王侍御は王給諌に逢おうと思って客の前へ着てゆく巾《ずきん》と袍《うわぎ》をさがしたが、二つとも見つからないので、すぐ出ることが[#「出ることが」は底本では「出ることか」]できなかった。王給諌は長く待っていたが王侍御が出て来ないので、これは王侍御が傲慢《ごうまん》で出て来ないだろうと思って、腹を立てて帰ろうとした。と、元豊が天子の着るような袞竜《こんりょう》の服を着、旒冕《そべん》をつけて、室の中から一人の女に推《お》し出されて出て来た。王給諌はひどく駭《おどろ》くと共に、王侍御を陥れる材料が
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