四谷怪談
田中貢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)元禄《げんろく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三十俵二人|扶持《ぶち》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「おつね」に傍点]
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元禄《げんろく》年間のことであった。四谷左門殿町に御先手組《おさきてぐみ》の同心を勤めている田宮又左衛門《たみやまたざえもん》と云う者が住んでいた。その又左衛門は平生《ふだん》眼が悪くて勤めに不自由をするところから女《むすめ》のお岩《いわ》に婿養子をして隠居したいと思っていると、そのお岩は疱瘡《ほうそう》に罹《かか》って顔は皮が剥《む》けて渋紙を張ったようになり、右の眼に星が出来、髪も縮れて醜い女となった。
それはお岩が二十一の春のことであった。又左衛門夫婦は酷《ひど》くそれを気にしていたが、そのうちに又左衛門は病気になって歿《な》くなった。そこで秋山長右衛門《あきやまちょうえもん》、近藤六郎兵衛《こんどうろくろべえ》など云う又左衛門の朋輩が相談して、お岩に婿養子をして又左衛門の跡目を相続させようとしたが、なにしろお岩が右の姿であるから養子になろうと云う者がない。皆が困っていると、下谷《したや》の金杉《かなすぎ》に小股潜《こまたくぐり》の又市《またいち》と云う口才のある男があって、それを知っている者があったので呼んで相談した。又市は、
「これは、ちと面倒だが、お礼をふんぱつしてくだされるなら、きっと見つけて来ます」
と、云って帰って往ったが、間もなく良い養子を見つけたと云って来た。それは伊右衛門《いえもん》と云う摂州《せっしゅう》の浪人であった。伊右衛門は又市の口に乗せられて、それでは先ず邸《やしき》も見、母親になる人にも逢《あ》ってみようと云って、又市に跟《つ》いてお岩の家へ来た。
伊右衛門は美男でその時が三十一であった。お岩の家ではお岩の母親が出て挨拶《あいさつ》したがお岩は顔を見せなかった。伊右衛門は不思議に思ってそっと又市に、
「どうしたのでしょう」
と云うと、又市は、
「あいにく病気だと云うのですよ、でも大丈夫ですよ、すこし容貌《きりょう》はよくないが、縫物が上手で、手も旨いし、人柄は至極柔和だし」
と云った。伊右衛門は女房は子孫のために娶《めと》るもので、妾《めかけ》として遊ぶものでないから、それほど吟味をするにも及ばないと思った。この痩浪人《やせろうにん》は一刻も早く三十俵二人|扶持《ぶち》の地位《みぶん》になりたかったのであった。
双方の話は直ぐ纏《まと》まった。伊右衛門は手先が器用で大工が出来るので、それを云い立てにして御先手組頭|三宅弥次兵衛《みやけやじべえ》を経て跡目相続を望み出、その年の八月十四日に婚礼することになり、同心の株代としてお岩の家へ納める家代金十五両を持って又市に伴《つ》れられ、その日の夕方にお岩の家へ移って来た。
お岩の家では大勢の者が出入して、婚礼の準備を調えていたので、伊右衛門は直ぐその席に通された。そして、その一方では近藤六郎兵衛の女房がお岩を介錯《かいしゃく》して出て来たが、明るい方を背にするようにして坐らしたうえに、顔も斜に向けさしてあった。伊右衛門は又市の詞《ことば》によってお岩は不容貌《ぶきりょう》な女であるとは思っていたが、それでもどんな女だろうと思って怖いような気もちで覗《のぞ》いてみた。それは妖怪《ばけもの》のような二た目と見られない醜い顔の女であった。伊右衛門ははっと驚いたが、厭《いや》と云えば折角の幸運をとり逃がすことになるので、能《よ》いことに二つは無いと諦めてそのまま式をすましてしまった。
いよいよお岩の婿養子になった伊右衛門は、男は好いし器用で万事に気の注《つ》く質《たち》であったから、母親の喜ぶのは元よりのこと、別けてお岩は伊右衛門を大事にした。しかし、伊右衛門は悪女からこうして愛せられることは苦しかった。苦しいと云うよりは寧《むし》ろあさましかった。それもその当座は三十俵二人扶持に有りついたと云う満足のためにそれ程にも思わなかったが、一年あまりでお岩の母親が歿くなって他に頭を押える者がなくなって来ると、悪女を嫌う嫌厭《けんお》の情が燃えあがった。
その時御先手組の与力に伊藤喜兵衛《いとうきへえ》と云う者があった。悪竦《あくらつ》な男で仲間をおとしいれたり賄賂《わいろ》を執ったりするので酷く皆から嫌われていたが、腕があるのでだれもこれをどうすることもできなかった。その喜兵衛は本妻を娶らずに二人の壮《わか》い妾を置いていたが、その妾の一人のお花《はな》と云うのが妊娠した。喜兵衛は五十を過ぎていた。喜兵衛は年とって小供を育てるのも面倒だから、だれかに妾をくれてやろうと思い
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