て、二三年奉公に出ておれば、あなたはまだ年も壮いし、わたしが引受けて、好い男を夫に持たしてあげる」
お岩は喜兵衛の詞《ことば》に云いくるめられて、伊右衛門の持ち出して往った衣服《きもの》を返してもらうことを条件にして別れることになった。伊右衛門は初めからそのつもりで質にも入れずに知人の家に隠してあったお岩の衣服を持って来て、うまうまとお岩を離縁したのであった。
お岩はそこで喜兵衛に口を利いてもらって、四谷|塩町《しおちょう》二丁目にいる紙売の又兵衛《またべえ》と云うのを請人に頼んで、三番町《さんばんちょう》の小身な御家人《ごけにん》の家へ物縫い奉公に住み込んだ。そうしてお岩を田宮家から出した喜兵衛は、早速お花を伊右衛門にやることにしたが、仲人なしではいけないので伊右衛門に云いつけて近藤六郎兵衛に仲人を頼ました。六郎兵衛は女房がお岩の鉄漿親《かねおや》になっているうえに、平生喜兵衛を心よからず思っているのでことわった。伊右衛門はしかたなしに秋山長右衛門の許へ往って長右衛門に頼み、七月十八日が日が佳《よ》いと云うので、その晩にお花と内輪の婚礼をした。
その婚礼の席には秋山長右衛門夫妻、近藤六郎兵衛がいたが、酒宴《さかもり》になったところで、伊右衛門の朋輩|今井仁右衛門《いまいじんえもん》、水谷庄右衛門《みずたにしょうえもん》、志津女久左衛門《しずめきゅうざえもん》の三人が押しかけて来た。そして、酒の座が乱れかけたところで、行灯《あんどん》の傍《そば》から一尺位の赤い蛇が出て来た。伊右衛門は驚いて火箸《ひばし》で庭へ刎《は》ねおとしたが、いつの間にかまたあがって来て行灯の傍を這《は》うた。伊右衛門はまたそれを火箸に挟んで裏の藪《やぶ》へ持って往って捨てたが、朝ぼらけになって皆が帰りかけたところで、天井からまた赤い蛇が落ちて来た。伊右衛門は何だかお岩の怨念《おんねん》のような気がして気もちが悪かった。伊右衛門はやけにその蛇の胴中をむずと掴《つか》んで裏の藪へ持って往って捨てた。
物縫い奉公に住み込んだお岩は、伊右衛門のことを思い出さないこともないが、それでも心は軽かった。某日《あるひ》お岩が庖厨《かって》の庭にいると、煙草屋《たばこや》の茂助《もすけ》と云う刻み煙草を売る男が入って来た。この茂助はお岩の家へも商いに来ていたのでお岩とも親しかった。
「田宮のお嬢様でございますか、この辺《あたり》にいらっしゃると聞いておりましたが、こちらさまでございますか、いかがでございます、左門殿町の方へも時どきいらっしゃいますか」
「わたしは、もう、道楽者の夫とは、縁を切って、こちらさまの御厄介になっておるから、往ったこともないが、さすがの比丘尼も、あの道楽者には困っておりましょうよ」
「おや、お嬢様は、何も御存じないと見えますね、伊右衛門様は、伊藤喜兵衛様のお妾のお花さんを御妻室になされておりますよ」
「え、それはほんとかえ」
「ほんとでございますとも、それも人の噂《うわさ》では、喜兵衛様のお妾のお花と、伊右衛門様をいっしょにするために、喜兵衛様、長右衛門様、伊右衛門様の三人が同腹《ぐる》になって、伊右衛門様に道楽者の真似《まね》をさして、それでお嬢様をお出しになったということでございます」
「そうか、そうであったか、そう云えば、読めた、鬼、外道」
お岩の眼はみるみる釣りあがった。顔の皮が剥けて渋紙色をした眼の悪い髪の毛の縮れた醜い女の形相は夜叉《やしゃ》のようになった。茂助は驚いて逃げだした。お岩の炎の出ているような口からは、伊右衛門、喜兵衛、お花、長右衛門の名がきれぎれに出た。お岩の朋輩の婢達はお岩を宥《なだ》めようとしたがお岩の耳には入らなかった。伝六と云うそこの若侍がつかまえようとすると、
「おのれも伊右衛門に加担するか」
と、云ってその若侍を投げ飛ばしたのちに、台所へ往って台所用具を手あたり次第に投げ出してから狂い出た。御家人の家ではそのままにしておけないので、大勢で追っかけさしたがどこへ往ったのか姿を見失ってしまった。そして、辻つじの番人に聞いて歩いていると、
「二十五六の女が髪をふり乱しながら、四谷御門の外へ走って往くのを見た」
と、云うところがあったので、またその方を探したがとうとう判らなかった。
お岩が奉公先を狂い出て行方の判らなくなったことは伊右衛門達の方へも聞えて来た。伊右衛門はそれを聞くとその当座はうす気味が悪かったが、結局邪魔者がいなくなったので安心した。
翌年の四月になって女房のお花は女の小供を生んだ。それは喜兵衛の小供であるのは云うまでもない。伊右衛門の家はそれから平穏で、お花は続いて三人の小供を生んだが、その小供の総領になっているお染《そめ》と云うのが十四、次の男の子の権八郎《ごんぱちろう》と云う
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