て遊ぶものでないから、それほど吟味をするにも及ばないと思った。この痩浪人《やせろうにん》は一刻も早く三十俵二人|扶持《ぶち》の地位《みぶん》になりたかったのであった。
双方の話は直ぐ纏《まと》まった。伊右衛門は手先が器用で大工が出来るので、それを云い立てにして御先手組頭|三宅弥次兵衛《みやけやじべえ》を経て跡目相続を望み出、その年の八月十四日に婚礼することになり、同心の株代としてお岩の家へ納める家代金十五両を持って又市に伴《つ》れられ、その日の夕方にお岩の家へ移って来た。
お岩の家では大勢の者が出入して、婚礼の準備を調えていたので、伊右衛門は直ぐその席に通された。そして、その一方では近藤六郎兵衛の女房がお岩を介錯《かいしゃく》して出て来たが、明るい方を背にするようにして坐らしたうえに、顔も斜に向けさしてあった。伊右衛門は又市の詞《ことば》によってお岩は不容貌《ぶきりょう》な女であるとは思っていたが、それでもどんな女だろうと思って怖いような気もちで覗《のぞ》いてみた。それは妖怪《ばけもの》のような二た目と見られない醜い顔の女であった。伊右衛門ははっと驚いたが、厭《いや》と云えば折角の幸運をとり逃がすことになるので、能《よ》いことに二つは無いと諦めてそのまま式をすましてしまった。
いよいよお岩の婿養子になった伊右衛門は、男は好いし器用で万事に気の注《つ》く質《たち》であったから、母親の喜ぶのは元よりのこと、別けてお岩は伊右衛門を大事にした。しかし、伊右衛門は悪女からこうして愛せられることは苦しかった。苦しいと云うよりは寧《むし》ろあさましかった。それもその当座は三十俵二人扶持に有りついたと云う満足のためにそれ程にも思わなかったが、一年あまりでお岩の母親が歿くなって他に頭を押える者がなくなって来ると、悪女を嫌う嫌厭《けんお》の情が燃えあがった。
その時御先手組の与力に伊藤喜兵衛《いとうきへえ》と云う者があった。悪竦《あくらつ》な男で仲間をおとしいれたり賄賂《わいろ》を執ったりするので酷く皆から嫌われていたが、腕があるのでだれもこれをどうすることもできなかった。その喜兵衛は本妻を娶らずに二人の壮《わか》い妾を置いていたが、その妾の一人のお花《はな》と云うのが妊娠した。喜兵衛は五十を過ぎていた。喜兵衛は年とって小供を育てるのも面倒だから、だれかに妾をくれてやろうと思い
前へ
次へ
全9ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング