珊瑚
蒲松齢
田中貢太郎訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)安大成《あんだいせい》
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 安大成《あんだいせい》は重慶《じゅうけい》の人であった。父は孝廉《こうれん》の科に及第した人であったが早く没くなり、弟の二成《じせい》はまだ幼かった。大成は陳《ちん》姓の家から幼《おさ》な名《な》を珊瑚《さんご》という女を娶《めと》ったが、大成の母の沈《しん》というのは、感情のねじれた冷酷な女で、珊瑚を虐待したけれども、珊瑚はすこしも怨《うら》まなかった。そして、朝あさ早く起きては身じまいをして、母の所へ挨拶にいった。
 大成がその時病気になった。母は珊瑚がみだらであるからだといって、ある朝珊瑚を責め詬《ののし》った。珊瑚は自分の室《へや》へ入って化粧をおとして母の前へいった。それを見て母はますます怒った。珊瑚は額を地に打ちつけてあやまった。大成は親孝行であった。それを見て鞭《むち》を執《と》って珊瑚を打った。それで母の気がすこし晴れてその場は収まったが、母はそれからますます珊瑚を憎んで、珊瑚が心から仕えても一言も物をいわなかった。
 大成は母が珊瑚に怒っていることを知ったので、我が家に寝ずに他所で泊って、珊瑚と夫婦の交わりを絶っていることを見せたが、それでも母の気持ちはなおらなかった。何かにつけて怒り罵るのは皆珊瑚のとばっちりであった。大成は、
「妻《かない》をもらうのは、舅姑《りょうしん》につかえさせるためなのだ。こんなことで何が妻だ。」
 といって、とうとう珊瑚を離縁して、老姨《ばあや》をつけて親里へ送らしたが、村を離れようとすると珊瑚は泣いて、
「女と生れて人の妻となることができないで、どうして両親に顔があわされよう。いっそ死ぬるがましだ。」
 といって、袖の中から剪刀《はさみ》を出して喉を突いた。老媼《ばあや》はびっくりして剪刀をもぎとったが、血は傷口から溢れ出て襟を沽《うるお》した。老媼はそれで珊瑚を大成の叔母にあたる王という家へ伴《つ》れていった。王はやもめぐらしで夫はなかった。珊瑚はとうとうそこにいることになった。
 老媼が帰って来ると大成は、この事情を隠しているようにいいつけたが、母がそれをさとりはしないかと思って恐れた。で、数日して珊瑚の傷がすこし癒《い》えかけたということを知ると、叔母の許へいって、門口で叔母に、
「叔母さん、あんな者を置いちゃいけない、おんだしなさい。」
 といった。叔母は、
「まァ、まァ、門口でそんなことをいってはいけない、お入りなさいよ。」
 といったが、大成は入らないで、
「おい、珊瑚出ていけ。こんな所にいてはいけない、出ろ、出ていけ。」
 といって怒鳴った。間もなく珊瑚は大成の前に出て来た。
「私にどんな罪がございましょう。」
 大成はいった。
「お母さんに仕えることができないじゃないか。」
 珊瑚は何かいいたそうにしながら何もいわないで、俯向《うつむ》いて啜《すす》り泣きをした。その泪《なみだ》には色があってそれに白い衫《じゅばん》が染まったのであった。大成はいたましさにたえないので、いおうとしていた詞《ことば》もよして引返した。
 それからまた二、三日して、母は珊瑚のことを聞き知った。怒って王家へいって汚い詞で王を誚《せ》めた。王も威張って負けていなかった。かえってさんざんに母の悪口をいった。そのうえ、
「嫁はもう出ているじゃないか、まだ安家のなにかになるのですか。私が自分で陳家の女を留めてある、安家の嫁を留めてあるのじゃないよ。なんで他の家のことに口を出すのです。」
 母はひどく怒ったが王のいうことが道理にかなっているので何もいえなかった。それに王の勢いが盛んであるから、だんだんしょげて来て大声に泣きながら返っていった。珊瑚は心がおちつかないので他へいこうと思った。
 その時、王の姨《おば》にあたる老婆があった。それは沈の姉であった。年は六十あまりであった。子供が亡くなって一人の小さな孫と、寡婦になった嫁との三人で暮らしていたが、せんに珊瑚をかわいがってくれたことがあるので、珊瑚はとうとう王の家を出て姨の所へいった。姨は故《わけ》を聞いて、
「妹のわからずやにもほどがある。」
 といって、そこで珊瑚を送り還そうとしたが、珊瑚は、
「それはだめですよ。」
 と、帰っていけない事情を頻りにいって、
「どうか、ここに来ていることをいわないでください。」
 と頼んだ。そこで珊瑚は姨の家にいることになったが、その容子は姑《しゅうとめ》に仕える嫁のようであった。
 珊瑚には二人の兄があった。兄は珊瑚のことを聞いて憐《あわ》れに思って、家《うち》へ連れて来て他へ嫁にやろうとした。珊瑚はどうしてもきかずに、姨の傍で女の手仕事をして生計《くらし》をたてていた。
 大成
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