山姑の怪
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)独身《ひとり》者

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)店|頭《さき》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な
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 甚九郎は店に坐っていた。この麹町の裏店に住む独身《ひとり》者は、近郷近在へ出て小間物の行商をやるのが本職で、疲労《くたび》れた時とか天気の悪い日とかでないと店の戸は開けなかった。
 それは春の夕方であった。別に客もないので甚九郎は煙管《きせる》をくわえたなりで、うとうととしていると何か重くるしい物音がした。店の上框《あがりかまち》へ腰をかけた壮《わか》い女の黒い髪と背が見えた。甚九郎は何も云わずに店|頭《さき》に坐り込んだ女の横顔を眼を円くして見詰めた。女は前屈みになって隻手を額にやっていた。途を歩いているうちに急に気分でも悪くなったために、挨拶する間もなく入り込んだものであろうと思って、旅で苦しんだ経験のある彼は女を驚かさないように黙っていた。
 女は小半時ばかりしても動かなかった。甚九郎はもしや女の病気がひどいのではないか、病気がひどいとなればこのままにして置かれないと思った。
「もし、もし、どうかなされたのか」
 と云うと、女はやっと顔をあげて、ちらと甚九郎の方を見ながら、
「眼まいがして、倒れそうになりましたから、お断りもせずに店頭を拝借しましたが、この上のお願いには、今晩一晩どうか泊めていただけますまいか」と、女は力なさそうに云った。
 悪い感じのしない可哀そうに思われる女であったが、見ず知らずの一人旅の者を泊めることは憚られた。
「私は泊めてあげたいが、見ず知らずの者を泊めると、大屋さんがやかましいから、籠ででも送ってあげよう、お前さんは何処ですかい」
「私は遠い在の者ですから、籠と申しましても、むずかしゅうございます」と、云って懐から銭をだして、「これを宿賃にあげますから、どうぞ一晩泊めてくださいまし」
 銭は三分あった。甚九郎は一晩位なら泊めてやっても好いと思いだした。
「見られるとおりの住居だから、着るものも何もないが、それでよければ、泊っておいで」
 女は悦んで上にあがった。甚九郎は持合せの薬を飲まし粥を炊いてやって喫《く》わせなどした。女の病気は次第に収まって、やがて甚九郎の分けて着せた蒲団に包まって、微暗い行灯の下ですやすやと眠った。

 朝起きると甚九郎は茶を沸かしはじめた。女もその後から起きて来て甚九郎の傍へ坐った。女は好い色|沢《つや》をしていた。
「お陰様で体がさっぱりいたしました、どうもありがとうございました」
「体がよくなったら何よりだ、お前さんは何処だね」
 と、甚九郎が聞くと、
「私は八王子在の者でございます、親も兄弟も無い、たった一人あった叔母にも、この比死なれましたから、下女奉公でもしていて、そのうちに私のような者でも妻室《かない》にしてくれる者があるなら、縁づきたいと思いまして、昨日江戸へ出て来ましたが、他に知人《しりびと》もないので、困っておりますうちに、持病の眩暈《めまい》が起りまして、御厄介になりました」
 女は気の毒な身の上であった。甚九郎は心をひかれた。
「それは気の毒だ、何人《だれ》も力になる者がないのか」
「はい」
 と、云って女は俯向いて考えていたが、やがて顔をあげて、
「……おねがいがございます」
 女の顔は紅くなっていた。甚九郎は考えた。
「何だね」
「こんなことを申しましては、なんでございますが、お見受け申しますところ、お一人のようでございますから、婢《じょちゅう》なり何なりにして、私をお傍へ置いてくださいますまいか、そのかわり、私は親の残してくれた金三十両持っております、それを商《あきない》の資本《もとで》にお使いくださいまし」
 懐へ手を入れて財布を出してその口を開けた。中には小判が光っていた。女はそれを甚九郎の前に置いた。三十両あれば商も大きくできて従って利益も大きい。甚九郎の心は小判に吸いつけられた。
「それじゃ、二人でいっしょに稼ごうじゃないか」
 甚九郎は女と夫婦になる約束をした。彼はその朝大屋へ往って、国元から従妹が尋ねて来たから暫く家へ泊めて置くと云った。

 甚九郎の隣に源吉と云う独身《ひとり》者が住んでいた。棒手振《ぼてふり》が渡世で夜でないと家にはいなかった。その夜も帰りに一ぱいひっかけてふらふらと帰って来たが、隣の新夫婦が気になるのでそっと覗いてやろうと思って、甚九郎の家の窓の下へ寄って往ったところで、月の光の射した窓の障子に電光《いなびかり》のような青い光がきら
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