った、お前も仲人なしに来た女だから、一まず里へ帰って、更めて女房にするようにと、昨日から云われているのだ、こんな迷惑なことはないが、泣く子と地頭と云うこともある。一まず在へ帰ってくれ、後からすぐ伴れに往く」
 女房の顔は見る見る物凄くなった。
「悪人には人相書がある、悪人でないか、悪人かはすぐ判ることじゃ、そんなことを云うのは、私が嫌になったからこしらえて云うことだろう」
 甚九郎は恐れて折角の謀《はかりごと》をうやむやにしてしまった。とても女を出て往かすことはできないから、己《じぶん》から逃げようと思った。彼は川崎の方へ行商に往くと云って家を出、川崎の方へは往かずに奥州街道をくだって三春へ往き、其処の二日町と云う処に借家をしていた。
 二十日ばかりしてのことであった。行商から帰って夕飯をすました甚九郎は、行灯の前に横になっていたが睡くなって来た。で、蒲団を出して行灯を消して寝たが、床についてみると眼が冴えて睡れない。しかたなしに暗い中で眼を開けていると、雨戸の隙間がぎらぎらと青く光った。不思議に思ってその方を見つめた。と、雨戸を戸外《そと》から叩く者がある。
「開けてくださいよ、私ですよ」
 その声はたしかに女房の声であった。甚九郎は蒲団を頭から冠って顫えた。
「開けてくださいよ、開けてくださいよ」
 甚九郎の耳はがんがんと鳴った。と、雨戸ががらがらと開いて女房が枕頭に来た。
「何故私をそんなに嫌います、いくら嫌われても、私は貴郎《あなた》を離れませんよ」
 甚九郎は死んだつもりで顔をあげた。何時の間にか行灯が点いて女房が艶かしい姿で坐っていた。

 甚九郎はもう怪しい女を刺し殺すより他に手段がないと思った。彼は此処では好い商《あきない》がないから会津の方へ往こうと云って、旅装束をして二人で家を出た。
 そして、山路を往ってその日の午比、小さな辻堂のある処へ往った。甚九郎は女とその辻堂の縁に腰をかけて、腰にしていた弁当を開いた。
 女の体に油断が見えた。甚九郎は腰の脇差を抜いて女の胸元を突いた。女は突かれながら甚九郎に掴みかかろうとした。甚九郎は身をかわした。女は仰向きになって倒れた。
 それを見ると甚九郎は刀を投げ捨てて逃げ走った。そして、気が注《つ》いてみると己《じぶん》は某《ある》寺の門前に立っていた。彼は其処へ駈け込んだ。
 六十前後の住持の僧が室《へや》
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