きどきやつて来ますがね、この路を通るのははじめてですよ、」
「さうでございませう、此所はちよと這入つてますから、それでもお屋敷へゐらつしやる書生さんが、よくお通りになりますよ、店をやつてます時は、お酒を飲んで行く書生さんがありましたよ、」
 登はふとこの家は茶店を止めてゐても、酒ぐらいは置いてあつて、知合の書生などには酒を飲ましてゐるらしいなと思つた。彼はすぐ自分の懐のことを考へてみた。懐にはまだ昨夜の使ひ残りがすこしは有つた。
「さうですか、ぢやすこし休まして戴きませうか、」
「さあ、どうぞ、」
 女が立ちあがつた。登も手拭で足をはたきながらあがつたが、帽子のことを思ひだしたので蹲んで持つた。
「汚いんですけれど、」
 女は歩いて行つて見付の障子を開けた。左側に小さな小縁が見えて其処に六畳ぐらゐの室があつた。右側は台所になつて、その口の所に一枚の障子があつた。
「此所ですよ、」
「すみませんね、」
 登は女の後から行つてその縁側へ出、障子を開け放してある室へと行つた。庭の先は青々とした木の枝が重つてゐて、それに夕陽が明るく射してゐた。
「今お茶を持つてあがります。」
 女は小縁を伝うて引ツ返して行つた。登は庭の方を向いて坐りながら、その女と昨夜知つた女の顔とが一緒になつたやうに思つた。
(さうだ、昨夜の女に似てゐる、だから、見たやうに思つたんだ、)
 女が茶碗を盆に乗せて持つて来てゐた。
「そんなにかしこまらないで、横におなりなさいましよ、何人も来る人はありませんから、」
 女は物慣れたものごしで云ひ/\、茶碗の盆を登の前へと置いて坐つた。
「すみませんね、」
 登はわざと女を見ないやうに茶碗を取つて、麦湯のような薄濁りのした冷たい物を口にした。
「横におなりなさいましよ、私一人ですから遠慮する者はありませんよ、」
 登はかしこまつて坐つてゐるのが苦しかつた。
「さうですか、ぢや、失敬します、」
 彼は胡座をかいて女の顔を見た。
「ほんとに横におなりなさいましよ、好いぢやありませんか、」
 登はふと酒のことを思ひだした。
「もう店をお止めになつたから、お酒なんかは無いでせうね、」
「えゝ、普通のお酒は無いんですけど、本郷のお屋敷から戴いた、西洋のお酒がありますが、なんなら差しあげませうか、」[#「、」」は底本では「」、」]
「いや、それは、それはなんですから、日本酒があるなら戴いても好いんですが、なに好いんですよ、」
「御遠慮なさらなくても、家の者は、何人も戴きませんから、よろしければ、差しあげませう、すこしゝかありませんけど、」
「さうですか、すこし戴きませうか、御面倒ぢやありませんか、」
「そんなことはありませんよ、では、差しあげませう、」
 女は起つて出て行つた、登は出て行く女の紫色の単衣の絡つた白い素足に眼をやりながら、昨夜の女の足の感じをそれと一緒にしてゐた。彼はうツとりとなつて考へ込んでゐた。
「こんな酒ですよ、召しあがれますかどうだか、」
 登は夢から覚めたやうな気持で眼をやつた。女が小さなコツプに半分ぐらゐ入れた薄赤い液体を盆に乗せて持つて来てゐた。女は膝を流して坐つてゐた。
「や、これはすみません、」
「なんだか辛いお酒だつて云ふんですよ、」
「さうですか、戴きませう、」
 登は茶の盆をすこし左の方に押しやつてから、コツプの乗つた盆を引き寄せ、それを持つてすこし舌の先に乗せてみた。それは麝香のやうな香のある強烈な酒であつた。
「なるほど、きつい酒ですな、しかし、旨いんです、」
 登はかう云つて一口飲んだ。彼の眼には黒い女の眼が見えてゐた。やがて登は、月の光のやうな薄暗い灯の点いた室で女と寝そべつて話してゐる自分に気が注いた。彼の手には女の手が絡まつてゐた。彼はまた酒のことを思ひだした。
「もう先ツきの酒はないんですね、」
「お酒、すこしならあるんですよ、まだおあがりになつて、」
 女の白い顔が覗くやうにした。
「すこし酒が醒たやうだ、あるならもうすこし飲みたいですな、」
「持つて来ませうか、」
「持つて来てください、」
 女は登の手にやつてゐた自分の手を除けて静かに起きながら、コツプの盆を持つて出て行つた。登はそれを見送りながらぢつとしてゐたが、女と離れてゐるのが物たりなくなつて来たので、起きるともなしに起きて、縁側に出て台所の方へと歩いて行つた。
 其所には障子の開いた台所の口があつて、内から青白い灯が射して物の気配がしてゐた。登は女が其所で何かしてゐると思つたので覗いてみた。台所の流槽の傍に女が向ふ斜に立つて、高くあげた右の手に黒い長い物をだらりとさげてゐた。登はなんであらふと思つて注意した。それは黒い鱗のぎらぎらとしてゐる大きな蛇で、頭を切り放したらしいその端の切口から赤い血が滴つて、それが流槽の上に
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