を忘れないように」
 許宣は法海禅師に別れて、身顫《みぶる》いしながら帰り、針子橋の李克用の家へ往った。李克用は許宣から白娘子の話を聞いて、はじめて誕生日の夜に見た妖蛇の話をした。そこで許宣は碼頭《はとば》の家を畳んで、再び李克用の家へ移ったが、十日と経たないうちに朝廷から恩赦の命がくだって、十悪大罪を除く他の者はみな赦《ゆる》された。許宣もそれと同時に赦されたが、法海禅師の詞もあるから急いで杭州へ帰って往った。
 李幕事夫婦は許宣の帰って来るのを待っていた。李幕事は許宣の挨拶が終るのを待って云った。
「お前も今度は豪《えら》い目に逢った。私はお前が蘇州へ往く時も、蘇州から鎮江へ往く時も、できるだけのことはしてやったが、それでも苦しかったのだろう、それと云うのもお前が一人でぶらぶらしてるからだ、早く家内をもらって身を固めるが宜い、そうすれば怪しい者だって寄りつかない」
 許宣はそれよりもじっとおちつきたかった。
「私は、もう懲り懲りしましたから、家内はもらいません」
 許宣のその詞が終るか終らないかに人声がして、そこへ入って来た者があった。それは許宣の姐が白娘子と小婢を伴れて来たところであった。
「あなたは家内があるくせに、そんな嘘を云うものじゃありません、私はあなたの家内じゃありませんか」
 許宣はがたがた顫いだした。そして、声を顫わし顫わし云った。
「姐さん、そいつは妖精です、そいつの云うことを聞いてはいけないです」
 白娘子は許宣の傍へ往った。
「あなたは、私と夫婦でありながら、人の云うことを聞いて私を嫌うとは、ひどいじゃありませんか、でも、私はあなたの家内ですから、他へはまいりません」
 白娘子は泣きだした。許宣は急いで起って李幕事の袖を曳いて外へ出た。
「あれが白蛇の精です。どうしたら宜いのでしょう」
 許宣は未《いま》だ口にしなかった鎮江に於《お》ける怪異を話して聞かした。
「ほんとうに蛇なら、宜い人がある、白馬廟《はくばびょう》の前に、蛇捉《へびとり》の戴《たい》と云う先生がいる、この人に頼もうじゃないか」
 李幕事は前《さき》に立って許宣を伴れて白馬廟の前へ往った。戴先生は折好く家の前に立っていた。
「お二方とも何か私に御用ですか」
 李幕事はいそがしそうに云った。
「私の家におおきな白蛇《しろへび》が来て、災《わざわい》をしようとしております、どうか捉《と》ってください」
 李幕事はそう云って腰から一両の銀《かね》を出して、戴先生の掌《て》に載せた。
「今これだけさしあげておきます、もし捉ってくだすったら、後でまたべつにお礼をいたします」
 戴先生は喜んで銀を収めた。
「では、すぐ後から準備《したく》をしてあがります、お二方は一足おさきへ」
 李幕事と許宣はすぐ帰った。戴先生は間もなく後からやって来たが、手には雄黄《いおう》を入れた瓶《びん》と薬水《やくすい》を入れた瓶を持っていた。
「どこに白蛇がおります」
 李幕事は白娘子のいる室《へや》を教えた。戴先生は教えられたとおりその室へ往ったが、室の扉は締っていた。戴先生は何かぶつぶつ云いながらその扉を開けようとしていると、扉は内から開いた。戴先生は内へ入って往った。内には桶《おけ》の胴のような白い蠎蛇《うわばみ》がいて、それが燃盞《かわらけ》のような両眼を光らし、炎のような舌を出して、戴先生を一呑《ひとの》みにしようとするように口を持って来た。戴先生は手にした瓶の落ちるのも知らずに逃げだした。
 李幕事と許宣は戴先生の結果を見に来たところであった。戴先生は二人に往きあたりそうになって気が注いた。李幕事が云った。
「先生、捉れたでしょうか」
 戴先生は呼吸《いき》をはずましていた。
「蛇なら捉れるが、あれは妖怪です、私はすんでのことに命を奪《と》られるところでした。あの銀はお返しします」
 こう云って戴先生は逃げるように出て往った。李幕事と許宣は顔を見合わして困っていた。
「あなた、ここへいらしてください」
 室の中から白娘子の声がした。許宣は体がぶるぶると顫えた。しかし、往かずにいてはどんなことをするかも判らないと思ったので、恐る恐る入って往った。中には白娘子が平生《いつも》と同じような姿で小婢と二人で坐っていた。
「あなたはほんとに薄情な方ですわ、あんな蛇捉の男なんか伴れて来て、あなたがそんなにわたしをいじめるなら、私にも考えがありますよ、この杭州一城の人達の命にかかわりますよ」
 許宣は恐ろしくてじっとして聞いてはいられなかった。彼はそのまま外へ出たが、足を止めるのが恐ろしいので足の向くままに歩いた。彼は清波門《せいはもん》の外へ往っていた。彼はそこへ往ってから気が注いて、これからどうしたものだろうかと考えた。しかし、それからどうしていいか、どう云う手段を
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