宜い気もちじゃありませんよ、あなたは、ここの旦那を老実な方だと云いましたが、どうしてそうじゃありませんよ、私が東厠《べんじょ》へ往ってると、後からつけて来て手籠《てご》めにしようとしたのです、ほんとに厭《いや》な方ですよ」
「しかし、べつにどうせられたと云うでもなかろう、まあ宜いじゃないか、早く帰ってお休みよ」
「でも、私はあの旦那が恐いわ、これからさき、またどんなことをせられるか判らないのですもの、それよりか、私が二三十両持ってますから、ここを出て、碼頭《はとば》のあたりで小さな薬舗を開こうじゃありませんか」
許宣も人の家の主管《ばんとう》をして身を縛られるよりも、自由に己《じぶん》で舗《みせ》を持ちたかった。彼は白娘子の詞《ことば》に動かされた。
「そうだな、小さな舗が持てるなら、そりゃその方が宜いが」
「では持とうじゃありませんか」
「そうだね、持っても宜いな、じゃ、暇をくれるかくれないか、明日旦那に願ってみよう」
許宣は翌日李克用に相談した。李克用は己の弱点があるうえに奇怪な目に逢っているので、許宣の云うことに反対しなかった。そこで許宣は白娘子と二人で碼頭の傍へ手ごろの家を借りて薬舗をはじめた。許宣ははじめて一家の主人となっておちつくことができた。
七月の七日になった。その日は英烈竜王《りゅうおう》の生日《えんにち》であった。許宣は金山寺《きんざんじ》へ焼香に往きたいと思って再三白娘子に同行を勧めたが白娘子は往かなかった。
「あなた一人で往っていらっしゃい、しかし、方丈《ほうじょう》へだけは往ってはいけないですよ、あすこには坊主が説経してますから、きっと布施を執られますよ、宜いですか、きっと方丈へ往ってはいけないですよ」
許宣は独りで往くことにして、舟を雇い、上流約一里の所にある金山寺の島山《しまやま》へ往った。揚子江の赤濁《あかにご》りのした流れを上下して金山寺へ往来する参詣人の舟が水鳥の群れたように浮んでいた。京口瓜州一水《けいこうかしゅういっすい》の間、前岸《ぜんがん》瓜州の楊柳《ようりゅう》は青々として見えた。
許宣は金山寺へあがって竜王堂へ往き、そこで焼香をすまして、あちらこちらを歩いているうちに、多くの参詣人が和尚の説経を聞いているところへ往った。許宣はここが白娘子の往ってはいけないと云った方丈だと思った。彼は急いで方丈の中を出て往った。許宣の引返そうとする顔を説経していた和尚がちらと見た。
「あの眼に妖気がある、あれを呼べ」
侍者の一人が呼びに往ったが、許宣はもう山をおりかけていたので聞えなかった。すると和尚はいきなり禅杖《ぜんじょう》を持ってたちあがるなり、許宣を追っかけて往った。
山の麓《ふもと》では大風が起って波が出たので、参詣人は舟に乗ることができずに困っていた。山をおりた許宣もその人びとに交って岸に立って風の静まるのを待っていた。と、一艘《いっそう》の小舟がその風の中を平気で乗切って来て陸《おか》へ着けかけた。許宣は神業のような舟だと思って、ふいと見ると、その中に白娘子と小婢《じょちゅう》の二人が顔を見せていた。その白娘子と許宣の眼が合った。
「あなた、早くお乗りなさい、風が吹きだしたから、あなたをお迎いに来たのです」
舟は同時に陸へ着いた。許宣は喜んで水際へおりた。許宣の後には許宣を追っかけて来た和尚がいた。
「この※[#「薛/子」、第3水準1−47−55]畜《ちくしょう》ここへ来やがって何をしようと云うのだ」
和尚は舟の中を見て怒鳴りながら禅杖を揮《ふ》りあげた。と、白娘子と小婢はそのまま水の中へもんどり打って飛び込んでしまった。許宣はびっくりして眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。そうして許宣は夢が覚めたようになった。
「あの和尚さんは、なんと云う和尚さんでしょう」
許宣は気が注いて傍の人に訊いた。
「あれが、法海禅師《ほうかいぜんし》様だ、活仏《いきぼとけ》だ」
和尚の侍者が許宣を呼びに来た。許宣は伴れられて和尚の前へ往った。
「お前さんは、あの女達とどこであわしゃった」
許宣はそこではじめからのことを話した。和尚はそれを聞いて云った。
「宿縁だ、しかし、お前さんの慾念《よくねん》が深いからだ、だが、災難はもうすぎたらしい、これから杭州に帰って、修身立命の人にならなくてはいけない、もし再びこんなことがあったら、湖南《こなん》の浄慈寺《じょうじじ》に来てわしを尋ねるが宜い、今、わしが偈《げ》を云って置くから、覚えているが宜い、本《もと》これ妖蛇《ようじゃ》婦人に変ず、西湖《せいこ》岸上《がんじょう》婦身《ふみ》を売る、汝《なんじ》慾《よく》重きに因《よ》って他計《たけい》に遭《あ》う、難《なん》有れば湖南《こなん》老僧を見よ、宜いかね、この偈
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