児のことを云うと、嫂《あによめ》は、「男子《おのこ》のひとり寝し給うが、兼《かね》ていとおしかりつるに、いとよきことぞ」と云ってその夜《よ》太郎に豊雄に女のできたことを話した。太郎は眉《まゆ》を顰《ひそ》めて、「この国の守《かみ》の下司に、県の何某と云う人を聞かず、我家|保正《おさ》なればさる人の亡くなり給いしを聞えぬ事あらじを」と云って彼《か》の太刀を精《くわ》しく見て驚いた。それは都の大臣殿《おおいどの》から熊野権現《くまのごんげん》に奉ったもので、そのころ盗まれた神宝《かんだから》の一つであった。父親は太郎からそれを聞いて、「他よりあらわれなば、この家をも絶《たや》されん、祖《みおや》の為《ため》子孫《のち》の為には、不孝の子一人|惜《おし》からじ、明《あす》は訴え出《い》でよ」と云って大宮司《だいぐじ》の許《もと》へ訴えさした。大宮司の許へ来て盗人の詮議をしていた助《すけ》の君《きみ》文室広之《ぶんやのひろゆき》は、武士十人ばかりをやって豊雄を捕えさした。
豊雄は涙を流して身の明しを立てようとした。助の君はそこで豊雄を道案内にして、武士を真女児の家へやった。大きな家ではあるが、門の柱も朽《く》ち、簷《のき》の瓦《かわら》も砕けて、人の住んでいるような所ではなかった。豊雄は驚いた。武士は付近の者を呼んで、「県の何某が女《め》のここにあるはまことか」と云うと、鍛冶《かじ》の老人が出て、「この家三とせばかり前までは、村主《すぐり》の何某という人の賑《にぎわ》しくて住侍《すみはべ》るが、筑紫《つくし》に商物《あきもの》積みてくだりし、その船|行方《ゆくえ》なくなりて後《のち》は、家に残る人も散々《ちりぢり》になりぬるより、絶えて人の住むことなきを、この男のきのうここに入りて、漸《やや》して帰りしを奇《あや》しとてこの漆師《ぬし》の老《おじ》が申されし」と云った。とにかく内を見極めようと云って、門を開けて入って探していると、塵《ちり》の一寸ばかりも積った室《へや》の中に古き帳《とばり》を立てて花のような女が一人いたが、武士が入って往くと大きな雷が鳴って、それとともに女の姿は見えなくなった。室の中を見ると、狛錦《こまにしき》、呉《くれ》の綾《あや》、倭文《しずり》、※[#「糸+賺のつくり」、第3水準1−90−17]《かとり》、楯《たて》、槍《ほこ》、靭《ゆき》、鍬《くわ》などの彼《か》の盗まれた神宝があった。
そこで豊雄の大盗《だいとう》の疑いは晴れたが、神宝を持っていた罪は免がれることができないので、牢屋《ろうや》に入れられていたのを、豊雄の父親と兄の太郎が賄賂《わいろ》を用いたので百日ばかりで赦《ゆる》された。豊雄は知った人に顔を見られるのが恥かしいので、大和の姉の許へ往った。その姉の家は泊瀬寺《はつせでら》に近い石榴市《つばいち》と云う所にあって、御明灯心《みあかしとうしん》の類を売っていた。某日《あるひ》豊雄が店にいると、都の人の忍びの詣《もうで》と見えて、いとよろしき女が少女を伴れて薫物《たきもの》を買いに来た。少女は豊雄を見て、「吾君《わがきみ》のここにいますは」と云った。それは真女児の一行であった。豊雄は、「あな恐し」と云って内に隠れた。女は豊雄を追って往って、「君|公庁《おおやけ》に召され給うと聞きしより、かねて憐《あわれ》をかけつる隣の翁《おきな》をかたらい、頓《とみ》に野らなる宿《やど》のさまをこしらえ、我を捕《とら》んずときに鳴神《なるかみ》響かせしは、まろやが計較《たばか》りつるなり」と云い、神宝のことに関しては、「何とて女《め》の盗み出すべき、前《さき》の夫《つま》の良《よか》らぬ心にてこそあれ」と云った。姉夫婦は真女児の詞《ことば》に道理があるので疑いを晴らして、「さる例《ためし》あるべき世にもあらずかし、はるばるとたずねまどい給う御心《おんこころ》ねのいとおしきに、豊雄|肯《うけが》わずとも、我々とどめまいらせん」と云って、豊雄の傍《そば》に置き、そのうちに豊雄にすすめて結婚さした。
三月になって一家の者が野遊びに往くことになった。真女児は、「我身|稚《おさなき》より、人おおき所、或《あるい》は道の長手《ながて》をあゆみては、必ず気のぼりてくるしき病《やまい》あれば、従駕《とも》にぞ出立《いでた》ちはべらぬぞいと憂《うれた》けれ」と云うのを無理に伴れて往った。そして、何某《なにがし》の院に往き、滝の傍を歩いて往ったところで、髪は績麻《うみそ》をつかねたような翁が来て、「あやし、この邪神《あしきかみ》、など人を惑《まどわ》す」と云うと、真女児と少女は滝の中に飛び込んだが、それと共に雲は摺墨《するすみ》をうちこぼしたる如《ごと》く、雨は篠《しの》を乱して降って来た。翁はあわてて惑う人々を案内して人家
前へ
次へ
全17ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング