それはもう古い古い家で、人が住んでいそうには思われなかった。許宣は不思議に思って眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]っていた。捕卒の一人は隣家へ走って往ってその家の事情を聞いて来た。それは毛巡税《もうじゅんえつ》と云う者の住んでいた家で、五六年前に瘟疫《おんえき》で一家の者が死絶えて、今では住んでいる者は無いはずであるが、それでも時どき小供《こども》が出て来て東西《もの》を買うのを見たことがあるから、何人《なんぴと》かが住んでいるだろうが、しかし、この地方には白と云う姓の者は無いと云うことであった。
 捕卒は家の前に立って手筈《てはず》を定め、門を開いて入って往った。扉は無くなり簷《のき》は傾き、磚《しきがわら》の間からは草が生え茂って庭内は荒涼としていて、二三日前に見た家屋の色彩はすこしもなかった。許宣は驚くばかりであった。
 捕卒は別れわかれになって室《へや》の中へ入った。荒れ崩れて陰々として見える室の中には、人の跫音《あしおと》を聞いて逃げる鼠の姿があるばかりで、どこにも人の影はなかった。別れていた捕卒はいつの間にかいっしょになって、最後の奥まった離屋へ往った。そこは一段高い室になって、一人の色の白い女が坐っていた。衣服《きもの》の赤や青の※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な色彩が見えた。その女は牀《とこ》の上に坐っているらしかった。捕卒は不審しながら進んで往った。
「われわれは、府庁からまいった者だが、その方は何者だ、白氏《はくし》なら韓大爺《かんだいや》の牌票《ぱいひょう》がある、その方が許宣にやった銀《かね》のことに就いて尋ねることがあるから、いっしょに伴れて往く」
 女はじっと顔をあげたが、何も云わなければ驚いた容子《ようす》もなかった。
「あのおちつきすましたところは、曲者《くせもの》だ、捉えろ」
 捕卒は一斉に走りかかっていった。と、同時に雷のような一大音響がした。捕卒はびっくりしてそこへ立ちすくんだ。そして、気が注《つ》いて女の方を見た。女の姿はもう見えなかった。捕卒は逃がしてはならないと思って、今度は腹を定めて室の中へ飛びこんで往った。女の姿は依然として見えなかったが、牀の傍には銀の包を積みあげてあった。それは紛失していた彼《か》の四十九個の銀錠であった。
 捕卒は銀錠を扛《も》って臨安府の堂上へ搬《はこ》んで来た。許宣はそこで盗賊の嫌疑は晴れたが、素性の判らない者から、私《ひそか》に金をもらったと云うかどで、蘇州《そしゅう》へ配流《ついほう》せられることになった。
 一方邵大尉の方では、約束の通り懸賞金五十両を出してそれを李幕事に与えたが、李幕事は義弟に苦痛を見せることによって得た金であるから、心苦しくてたまらない。で、牢屋の内にいる許宣に面会して、その金を旅費に与え、李将仕と相談して、二つの手簡を持って往かすことにした。その手簡の一つは、蘇州の押司《おうし》の范《はん》院長と云う者に与えたもので、一つは吉利橋下《きちりきょうか》に旅館をやっている王と云う者に与えたものであった。
 その日になると許宣は二人の護送人に伴れられて牢屋を出た。府庁の門口《かどぐち》には李幕事夫婦をはじめ李将仕などが来て待っていた。許宣は涙を滴《こぼ》してその人びとに別れの詞をかわして出発した。
 三日ばかりして蘇州府へ着いた。李将仕の手簡を見た范院長と王主人は、金を使って奔走したので、許宣は王主人の許に預けられることになった。

 許宣が王主人の許に世話になってから半年ばかりになった。彼はそこで毎日|無聊《ぶりょう》に苦しめられていた。と、ある日王主人が室へ入って来た。
「轎《かご》に乗った女が来て、お前さんを尋ねている、※[#「Y」に似た字、第4水準2−1−6]鬟《じょちゅう》も一人|伴《つ》れている」
 許宣は心当りはなかったが、好奇《ものずき》に門口へ出てみた。門口には彼《か》の白娘子と青い上衣を着た小婢《じょちゅう》が立っていた。許宣は驚きと怒《いかり》がいっしょになって出た。
「この盗人、俺《おれ》をこんな目に逢わしておいて、またここへ何しに来たのだ」
「私は、決して、そんな悪いものではありません、それをあなたに弁解《いいわけ》したくてまいりました」
 白娘子は心持ち※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な首を傾けて、さも困ったと云うようにした。
「いくら俺をだまそうとしたって、もうその手に乗るものかい、この妖怪《ばけもの》」
 許宣の後からやって来た王主人は、許宣が門前でやかましく云っていて人に聞かれても面白くないと思ったので、その傍へ往った。
「遠くからいらした方らしいじゃないか、まあ内へ入れて話をしたら宜いじゃないか」
 王主人はそう云ってから白娘子の方を見て云った。
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