おや、いらっしゃいまし」
「傘をもらっていこうと思って、今、来たところですが、どこです」
 許宣は腹の裏を見透されるように思って長い間探していたとは云えなかった。彼はそうして小婢に伴れられて往った。
 おおきな楼房《にかいや》があって高い牆《へい》を四方に廻《めぐ》らしていた。小婢はその前に往ってちょっと足を止めて許宣の顔を見た。
「ここですわ」
 許宣はこんな大きな家に住んでいた人が何故《なぜ》判《わか》らなかったろうと思って不審した。彼はそのまま小婢に随《つ》いてそこの門を潜《くぐ》った。
 二人は家の中へ入って中堂《ざしき》の口に立った。
「奥様、昨日《きのう》御厄介になった方が、いらっしゃいました」
 小婢が内へ向いて云った。すると内から白娘子の声がした。
「そう、では、こちらへね、さあ、あなた、どうかお入りくださいまし」
 白娘子の詞について小婢が云った。
「さあ、どうかお入りくださいまし」
 許宣は入りにくいので躊躇《ちゅうちょ》していた。と、小婢がまた促《うなが》した。
「奥様もあんなにおっしゃってますから、どうぞ」
 許宣はそこで心を定《き》めて入った。室《へや》の両側は四扇《しまいびらき》の隔子《かくし》になって一方の狭い入口には青い布《きれ》の簾《とばり》がさがっていた。小婢は白娘子に知らすためであろう、その簾を片手に掲げて次の室へ往った。許宣はそこに立って室の容《ようす》を見た。中央の卓《つくえ》の上に置いた虎鬚菖蒲《はししょうぶ》の鉢が、先《ま》ず女の室らしい感じを与えた。そして、両側の柱には四幅《しふく》の絵を掛《か》けて、その中間になった所にも何かの神の像を画《えが》いた物を掛けてあった。神像の下には香几《こうづくえ》があって、それには古銅の香炉《こうろ》と花瓶《かびん》を乗せてあった。
 白娘子が濃艶《のうえん》な顔をして出て来た。許宣はなんだかもう路傍の人ではないような気がしていたが、その一方では非常にきまりがわるかった。
「よくいらっしゃいました、昨日はまたいろいろ御厄介になりまして有難うございました」
「いや、どういたしまして、今日はちょっとそこまでまいりましたから、お住居はどのあたりだろうと思って、何人《だれ》かに訊いてみようと思ってるところへ、ちょうど婢さんが見えましたから、ちょっとお伺いいたしました」
 二人が卓に向きあって腰をかけたところで、小婢が茶を持って来た。許宣はその茶を飲みながらうっとりした気もちになって女の詞を聞いていた。
「では、これで……」
 許宣は動きたくはなかったが、いつまでも茶に坐っているわけにはゆかなかった。腰をあげたところで、小婢が酒と菜蔵果品《さかな》を持って来た。
「何もありませんが、お一つさしあげます」
「いや、そんなことをしていただいてはすみません、これで失礼いたします」
「何もありません、ま、お一つ、そうおっしゃらずに」
 許宣は気の毒だと思ったが女の傍にいたくもあった。彼はまた坐って数杯の酒を飲んだ。
「それでは失礼いたします、もうだいぶん遅くなったようですから」
 許宣は遅くなったことに気が注いたので、思い切って帰ろうとした。
「もうお止めいたしますまいか、あまり何もありませんから、それでは、もう、ちょとお待ちを願います、昨日拝借したお傘を、家の者が知らずに転借《またがし》をいたしましたから、すぐ執ってまいります、お手間は執らせませんから」
 許宣はすぐ今日もらって往くよりは、置いてく方がまたここへ来る口実があっていいと思った。
「なに、傘はそんなに急ぎませんよ、また明日でも執りにあがりますから、今日わざわざでなくっても宜いのです」
「では、明日、私の方からお宅へまでお届けいたしますから」
「いや、私があがります、店の方も隙《ひま》ですから」
「では、お遊びにいらしてくださいまし、私は毎日対手《あいて》がなくて困っておりますから」
「それでは明日でもあがります、どうも御馳走になりました」
 許宣は白娘子に別れ、小婢に門口《もんぐち》まで見送られて帰って来たが、心はやはり白娘子の傍にいるようで、己《じぶん》で己を意識することができなかった。そして、翌日舗《みせ》に出ていても仕事をする気になれないので、また口実を設けて外へ出て、そのまま双茶坊の白娘子の家へと往った。
 許宣の往く時間を知って待ちかねていたかのように小婢が出て来た。
「ようこそ、さあどうかお入りくださいまし、今、奥様とお噂《うわさ》いたしておったところでございます」
「今日は傘だけいただいて帰ります、傘をください、ここで失礼します」
 許宣はそう云ったものの早く帰りたくはなかった。彼は白娘子が出て来てくれればいいと思っていた。
「まあ、そうおっしゃらずに、ちょとお入りくださいまし」
 
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