なかった。
「張さん、張さん、おい張さん」
 許宣の声が聞えたとみえて、船頭は顔をあげて陸《おか》のほうを見た。
「おれだ、おれだ、張さん、湧金門まで乗っけてくれないか」
 船頭は許宣を見つけた。
「ほれ、主管《ばんとう》さん……」
 船頭は驚いたように云って艫をぐいと控えて、舳を陸にして一押し押した。と、舟はすぐ楊柳《ようりゅう》の浅緑の葉の煙《けむ》って見える水際の沙《すな》にじゃりじゃりと音をさした。許宣は水際へ走りおりた。
「気の毒だが、湧金門までやっておくれ、保叔塔へ焼香に往ってて雨を喫《く》ったところだ」
「そいつは大変でしたね、早くお乗んなさい、わっしも湧金門へいくところじゃ」
「そうか、そいつはちょうど宜《よ》い、乗っけてもらおう」
 許宣は急いで足を洗って舟へ乗った。船頭は水棹《みずさお》を張って舟を出し、舳を東へ向けて艫を立てた。
「もし、もし、船頭さん、すみませんが、乗せてってくださいまし」
 ふくらみのある女の声がするので許宣は苫の隙から陸のほうを見た。背のすらりとした※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な女が青い上衣《うわぎ》を着た小婢《じょちゅう》に小さな包を持たせて雨に濡れて立っていた。
「張さん、乗っけてやろうじゃないか、困ってるじゃないか」
「そうですな、ついでだ、乗っけてやりましょうや」
 船頭はまた舟を陸へやった。絹糸のような小雨の舳に降るのが見えた。
「どうもすみません、俄《にわか》に雨になったものですから……」
 艶《なまめ》かしい声がして女達は舟へあがって来た。そして、※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]な女の顔がもう苫屋根の下にくっきりと見えた。
「どうもすみません、お邪魔をさせていただきます」
 女はおちついた物越しであいさつをした。許宣はきまりがわるかった。彼はあわてて女のあいさつに答えながら体を後《うしろ》の方へのけた。
「さあ、どうぞ」
 女はそのまま入って来てその膝頭《ひざがしら》に喰《くっ》つくようにして坐った。女の体に塗った香料の匂《におい》がほんのりとした。許宣は眩《まぶ》しいので眼を伏せていたが、女の顔をはっきりと見たいと云う好奇心があるのでそろそろと眼をあげた。黒い潤《うる》みのある女の眼がじっと己《じぶん》の方を見ているのにぶつかった。許宣はあわててまた眼をそらした。
「あなたは、どっちにお住居でございます」
 女は執着を持ったような詞《ことば》で云った。許宣のきまりのわるい思いはやや薄らいで来た。
「過軍橋の黒珠巷《こくじゅこう》です。許と云う姓で、名は宣と云います、あなたは」
「私は、白《はく》と申します、私の家は白三班《はくさんぱん》で、私は白直殿《はくちょくでん》の妹で張《ちょう》と云う家へ嫁《かたづ》いておりましたが、主人が歿くなりましたので、今日はその墓参をいたしましたが、こんな雨になって、困っているところを、お蔭さまでたすかりました」
「そうでしたか、私も両親を早く歿くしておりますので、今日は保叔塔寺へ往ったところで、この雨で、困って湧金門まで舟を雇おうと思って、来て見ると知己の舟がいたので乗ったところでした、ちょうど宜《よろ》しゅうございました」
 舟は府城《ふじょう》の城壁に沿うて南へ南へと往った。絹糸のような雨が絶えず苫屋根の外にあった。
「家を出る時は、好いお天気でしたから、雨のことなんかちょっとも思わなかったものですから、困ってしまいました、ほんとに有難うございました」
 小婢が主人の横脇でもそもそと体を動かす気配がした。
「私も姐《あね》の家に世話になって、日間《ひるま》は親類の薬舗へ勤めておりますので、暇をもらって、やっぱり雨のことは考えずに、来たものですから、ひどい目に逢いました、皆、今日は困ったでしょうよ」
 許宣は気もちをいじけさせずに女と話すことができた。
 舟はもう湧金門の外へ来ていた。小さな白い雨は依然として降っていた。女は何か思いだしたように己の体のまわりをじっと見た後《のち》に、小婢の耳に口を着けて小声で囁《ささや》いて困ったような顔をした。と、小婢の眼元が笑って女に囁きかえした。それでも女は困ったような顔をしていた。
「あのね、なんですが」
 小婢の顔がこっちを見た。許宣は何事だろうと思った。
「今朝、家を出る時に、急いだものですから、おあしを忘れてまいりました、誠に恐れ入りますが、どうか船賃を拝借させていただきとうございますが、家へ帰りましたなら、すぐお返しいたしますが」
「そんなことは宜いのですよ、私が払いますから」
 舟はもう水際へ着いていた。女はきまりわるそうにもじもじしていた。
「さあ、舟が着きました、あがりましょう」
 許宣は腰につけた銭袋から幾等《いくら》かの銭を執《と》って舟の
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