を出て、石函橋《せきかんきょう》を過ぎ、一条路《ひとすじみち》を保叔塔の聳《そび》えている宝石山《ほうせきざん》へのぼって寺へと往ったが、寺は焼香の人で賑《にぎ》わっていた。許宣も本堂の前で香を燻《くゆ》らし、紙馬紙銭《しばしせん》を焼き、赤い蝋燭《ろうそく》に灯を点《とも》しなどして両親の冥福を祈った。そして、寺の本堂へ往き、客堂へあがって斎《とき》を喫《く》い、寺への布施もすんだので山をおりた。
 山の麓《ふもと》に四聖観《しせいかん》と云う堂があった。許宣がその四聖観へまでおりた時、急に陽の光がかすれて四辺《あたり》がくすんで来た。許宣はおやと思って眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。西湖の西北の空に鼠《ねずみ》色の雲が出て、それが陽の光を遮《さえぎ》っていた。東南の湖縁の雷峰塔のあるあたりには霧がかかって、その霧の中に塔が浮んだようになっていた。その霧はまた東に流れて蘇堤《そてい》をぼかしていた。眼の下の孤山《こざん》は燻銀《いぶしぎん》のくすんだ線を見せていた。どうも雨らしいぞ、と思う間もなく、もう小さな雨粒がぽつぽつと落ちて来た。許宣は四聖観の簷下《のきした》に往って立っていたが、雨は次第に濃くなって来て、雨隙《あめすき》が来そうにも思われなかった。空には微墨《うすずみ》色をした雲が一めんにゆきわたっていた。許宣はしかたなしに鞋《くつ》を脱ぎ襪《くつした》も除《と》ってそれをいっしょに縛って腰に著《つ》け、赤脚《はだし》になって四聖観の簷下を離れて湖縁へと走った。
 許宣はそこから舟を雇《やと》うて湧金門《ゆうきんもん》へまで帰るつもりであった。不意の雨に驚いて濡《ぬ》れながら逃げ走っている人の姿が、黒い点になってそこここに見えた。湖のなかにも小舟が右に左にあたふたと動いていた。それは皆俗に杭州舟《こうしゅうぶね》と云っている苫《とま》を屋根にした小舟であった。その小舟の中に舳《へさき》を東の方へ向けて老人が艫《ろ》を漕いでいる舟があって、それがすぐ眼の前を通りすぎようとした。許宣はどの舟でもいいから近い舟を呼ぼうと思って、その舟に声をかけようとしたところで、どうもその船頭に見覚えがあるようだから竹子笠《たけのこがさ》を冠っている顔に注意した。それは張河公《ちょうかこう》と云う知己《しりあい》の老人であった。許宣はうれしくてたまら
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