新聞に出ていた。場所を見ると根府川としてあった。私はすこし気になることがあるので、東京駅へ往ってそれを確かめ、心配していることが杞憂に終るようなら、本所の方へ往って被服廠跡を見ようと思って、深川から避難して来ている友人に警備の代理を頼んでおいて出かけた。
 本郷の方にちょっと用事があったので、それへ廻り道をして大学の正門前へ出、それから電車通りを往って、二日の日に一度見ている本郷の焼け跡の灰を見ながら、若竹の前を通って順天堂の手前へ出た。かつては皇城を下瞰するというので一部の愛国者を憤激さしたニコライの高い塔も焼けて、頂上がなくなっていた。それからお茶の水橋を渡ろうとしたが、橋桁《はしげた》からまだ煙が出ていて危険なうえに、兵士が橋の袂《たもと》に針金を張って通行を遮断しているので昌平橋の方へと往った。
 路の左側の女子高等師範の建物も、聖堂も、教育博物館の建物も焼けていた。教育博物館の前になった河縁の鳥屋の焼け跡には、まだ石油のカンらしい物が燃えていた。
 昌平橋を渡って須田町へと往った。そこには万世橋駅と高架線の線路と、街頭に建った銅像とが残っているのみであった。他は焼け残りの土蔵
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