新聞に出ていた。場所を見ると根府川としてあった。私はすこし気になることがあるので、東京駅へ往ってそれを確かめ、心配していることが杞憂に終るようなら、本所の方へ往って被服廠跡を見ようと思って、深川から避難して来ている友人に警備の代理を頼んでおいて出かけた。
 本郷の方にちょっと用事があったので、それへ廻り道をして大学の正門前へ出、それから電車通りを往って、二日の日に一度見ている本郷の焼け跡の灰を見ながら、若竹の前を通って順天堂の手前へ出た。かつては皇城を下瞰するというので一部の愛国者を憤激さしたニコライの高い塔も焼けて、頂上がなくなっていた。それからお茶の水橋を渡ろうとしたが、橋桁《はしげた》からまだ煙が出ていて危険なうえに、兵士が橋の袂《たもと》に針金を張って通行を遮断しているので昌平橋の方へと往った。
 路の左側の女子高等師範の建物も、聖堂も、教育博物館の建物も焼けていた。教育博物館の前になった河縁の鳥屋の焼け跡には、まだ石油のカンらしい物が燃えていた。
 昌平橋を渡って須田町へと往った。そこには万世橋駅と高架線の線路と、街頭に建った銅像とが残っているのみであった。他は焼け残りの土蔵、四壁ばかり残った石造の建物、火の入った金庫、鉄骨、流れ藻のように手足に絡まる電線、石、瓦、煉瓦、灰、消え残りの火、煙。私は荒漠たる焼け跡を通って本石町の方へ往き、そこから新常盤橋を渡って東京駅へと往った。火災を免がれた東京駅付近の大建築物が、地震の損害を受けていても魏然《ぎぜん》として立っているのが非常に頼もしそうに思われた。
 東京駅の構内にも避難者が入っていた。私は駅長室へ往って汽車のことをしらべた。汽車の墜落は事実であったが、私の心配は杞憂に終った。私ははじめの予定通り本所に往くことにして、呉服橋を渡り、それから日本橋の街路を横切って、白木屋の焼け跡に沿うて往きかけたが、本石町と馬喰町とに焼け跡を弔うてやりたい書肆のあることを思いだしたので、引き返し、欄干の粧飾の焼けて鎔けかけた日本橋を渡って、外形ばかり残った三越の建物を見ながら、また本石町の四辻へと往って、そこから右に折れた。
 風が火のほとぼりと灰とを吹いた。それに空には暑い陽が燃えていた。私は東京駅前で詰めかえて来たサイダーのビンの水を飲みながら歩いた。
 左側の本石町の書肆の焼け跡はすぐ見つかった。そこにも避難している
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