あがっているので離れようとはしなかった。
「私は妾になってもよろしゅうございます。」
その時副将軍の袁《えん》公という者があって、尹翁と古い知合であった。ちょうど西の方に向けて出発することになって尹の所へ寄った。袁は尹の家で金を見て、ひどくその人となりを愛して秘書となってくれと頼んだ。間もなくその地方に流賊の乱が起って、袁は大功をたてた。金も袁の機務にたずさわっていたので、その功によって游撃将軍となって帰って来た。そこで金と唐は始めて結婚の式をあげた。
三、四日いて金は唐を伴れて金陵へいって、庚娘の墓参りをしようとした。そして舟で鎮江《ちんこう》を渡って金山《きんざん》に登ろうとした。舟が中流へ出た時、不意に一|艘《そう》の小舟が擦《す》れ違った。それに一人の老婆と若い婦人が乗っていたが、その婦人がひどく庚娘に似ていた。舟は矢よりも早くゆき過ぎようとした。若い婦人も舟の窓の中から金の方を見た。その貌《かお》も容《かたち》もますます庚娘に似ているので驚きあやしんだ。そこで名をいって呼ばずにいそがしそうに、
「群鴨《ぐんおう》児、飛んで天に上るを見るか。」
といった。婦人はそれを聞くとまたいった。
「※[#「飮のへん+巉のつくり」、270−16]※[#「けものへん+渦のつくり」、第3水準1−87−77]《さんか》児、猫子の腥《なまにく》を喫《くら》わんと欲するか。」
それは当年行われた閨中《けいちゅう》の隠語《いんご》であった。金はひどく驚いて、舟を返して近づいた。それはほんとうの庚娘であった。婢が手を引いてこちらの舟へ来た。二人は抱きあって泣いた。同船の旅客ももらい泣きをした。
唐は庚娘に正夫人に対する礼を以て接した。庚娘は驚いて訊いた。金は始めてその故《わけ》を話した。庚娘は唐の手を執っていった。
「舟で御一緒になった時から、あなたのことは忘れませんでした。それにはからずこんなことになりまして、私の代りにお父さんお母さんを葬っていただいて、何といってお礼を申していいか解りません。私はあなたにそうしていただいてはすみません。」
そこで年齢の順序で一緒におることになったが、唐は庚娘の一つ歳下であったから妹としていることになった。
庚娘は初め葬られた時は何も解らなかったが、不意に人の声がして、
「庚娘、その方の夫は生きておる。その方はまた夫に逢って夫婦となる
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