「駄目だよ、そんな金は無いよ、お前には、もう百四五十円も行つてる筈だが、金をたゞ湧くものゝやうに思つてもらつちや困るな、宮原の財産がすこしあるとしたところで、そんなに見界なしに金を使つちや困るぢやないか、今度の金は一周忌の金なんだから、言い訳は立つやうなものゝ、なんでもなしに思つてゐちや困る、だいち、俺の身寄の者を養子にしておいて、それが無駄費ひをするのを黙つて見てゝは、藤村の方へ対してもすまないし、世間に対しても申訳がないぢやないか、」
義直は何も云へなかつた。
「お前は近頃増長してゐるんだ、すこしは自分の身分も考へてみるが好い、お前はなんと思つてるんだ、ひとつお前に聞くことがあるが、お前は今日、三時半頃に中野のお寺へ行つて、五時頃に帰つて来て、友達に逢つて、友達の家へ寄つたと云ふが、その友達は何んと云ふんだ、」
義直は吃驚してそつと叔父の顔を見た。義直は友人の名を出まかせに云ふより他に仕方がなかつた。
「小原君です、巣鴨の宮仲にゐる、一緒に早稲田に行つてた友人です、」
叔父の手にしてゐた団扇がぱたぱたと音を立てた。
「ぢや行く時に、何人か連があつたのか、」
「ありません、」
「いけないよ、そんな嘘を云つたつて、駄目だよ、今日お前が、――公園のベンチで、変な女と凭れ合つて眠つてゐたところを、見て来た者があるんだ、馬鹿、何と云ふ醜態だ、女なんかに引つかゝつて、本を買ふとか、油絵の道具を買ふとか俺を騙してゐたんだらう、馬鹿、することにことを欠いで、昼間、女なんかと凭れ合つて、恥晒をして眠つてゐると云ふことがあるか、貴様の醜態を見て来た者が、黒い大きな蝶が来て、貴様の着てゐる帽子の上にとまつてたことまで、見てゐるんだぞ、馬鹿、なんと云ふ恥晒しだ、」
惑乱してゐる義直の耳に蝶と云ふ言葉がはつきりと聞えた。
「貴様のやうな奴は、俺がなんと思つたつて駄目だ。家へ帰つて百姓でもしろ、馬鹿、蝶が来てとまつても判らないやうに眠つてゐると云ふことがあるか、馬鹿、田舎へ帰つて爺仁に話してみろ、貴様のやうな奴は、これからいつさい知らないから、さう思つてろ、馬鹿、」
義直はふらふらと起ちあがつて、足にまかせて歩き出した。
四
義直は暗い坂路をあがつてゐる自分に気が注いた。其所には月の光があるでもなければ、また電燈の光もないのに、うつすらとした紗に包まれた
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