胡氏
田中貢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)直隷《ちょくれい》に
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一人|逐《お》いつめられて
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直隷《ちょくれい》に富豪があって家庭教師を傭おうとしていると、一人の秀才が来て、自分を傭うてくれと言った。主人は内へ入れて話してみると、言語がさわやかであったから、好い人があったと思って悦《よろこ》んだ。秀才は自分で胡《こ》という姓であると言った。
そこで富豪は幣《かね》を出して胡を自分の家へ置いた。胡は児《こども》を教育するにあたって心切《しんせつ》で勤勉であった。それに学問が博くてしたっぱな人間でないということが解った。その胡は時とすると散歩に出て夜暗くなって帰る癖があったが、その時は入口の扉を堅く閉めてあるにもかかわらず、叩いて人を呼ばないで、いつの間にか室《へや》の中に入っていた。主人は不思議に思って、ある時そっと窺《のぞ》いてみると、室《へや》の中に胡はいなくて一疋の狐がいた。
主人はひどく驚いたが、しかし胡の意《こころ》をはかってみるに悪いことをするようでもないから、鄭重に取りあつかって妖怪というようなことで礼儀を廃すようなことはなかった。胡は主人に女《むすめ》のあるのを知って結婚したいと思ったのか、時どきその意味をほのめかしたが、主人はそのつど意味が解らないような顔をした。
ある日、胡は休暇をくれと言って出て往ったが、翌日一人の客が来た。客は黒い驢《ろば》に乗って来てそれを門に繋いであった。主人はその客を迎えた。それは年の頃五十あまりの履物も着物も新しい、温厚な男であった。やがて二人が席につくと、客は自分の来た用事を話しだした。
「私が今日あがりましたのは、胡氏があなたと長く御交際を願いたいために、お宅の令嬢と結婚したいと申しますものですから」
主人は黙って聞いていたが、暫くして言った。
「僕と胡先生とは、もう莫逆《ばくぎゃく》の友になっております、結婚なんかしなくてもいいでしょう、それに児《こども》は、もう許婚《いいなずけ》になっておりますから、どうかあなたが僕に代って、胡先生に話してください」
「しかし令嬢は、確かにまだ許婚になっていないことを知っておりますが、なぜ胡先生と結婚さすのをお嫌いになります」
客はこんなことを二三回も繰りかえして言ったが
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