卵塔場の中へ入って往った。それは風のない夕方のことで夕陽が微赤い光をそのあたりに投げていた。新一は石碑の間を彼方此方と潜《くぐ》って歩いているうちに、一処平べったい大きな石碑が横に倒れて、それが芒の中に半ば隠れている処へ出た。新一はこんなに石碑が倒れているのに何故起してやらないのだろうと思いながら、ふと見ると、その倒れた石碑の上に茶色の毛をした犬のような細長い獣が人間の腹這《はらんば》いになったように寝ていたが、それが小さな帳面を前へ置いて、一心になって見ているような容《ふう》をしていた。新一は不思議なことをする獣だと思っていきなり大きな声を立てた。と、獣は吃驚して跳びあがるなり逃げて往ったが、直ぐ傍の石碑の陰へ隠れて見えなくなった。
新一は獣の癖になにを見ているだろうと思って、その跡へ往ってその帳面のようなものを拾ってみた。それは半紙を三枚綴り合せて、片仮名のような文字を微青く書いたものであった。タカとか、オユキとか、オハナとか、人の名のようなものを紙の中程から横に並べて書いたもので、そうした物が三十ばかりも書いてあったが、初めから二枚目の終りあたりまでは、文字の上に三角の標《しるし》をつけてあった。そして、その最後の三角の下の文字はオタキと云う文字であった。
「……おたき、おたき……」
新一はその文字を読みながら、なんだか知ったような名であると思っているうちに、その文字が己《じぶん》の母の名と同じであると云うことが判って来た。
「お母《っか》さんの名だ」
新一は怪しい獣のことを思いだした。それでは彼《あ》の獣が己の家に来る怪しい獣ではないかと思った。
「犬とは違っていた、たしかに彼奴が狐に違いない」
新一はそれと知ったなら石でも投げつけて、殺してやるのであったにと思って残念になって来た。新一は帳面を握ったなりにそのあたりを彼方此方と歩いて捜したが、もう影も形も見えなかった。
「よし、吉公の云ったように、鼠取を使ってやろう、姨《おば》さんなんかに黙ってて、一人でそっとやってやれ」
新一は帳面を懐に隠して何くわぬ顔をして家へ帰って来た。庖厨《かって》口を入ろうとしたところで茶の間の方で人の話声がしているので、何人《たれ》かが来ているだろうかと思ってあがった。父親の新三郎が陽焼けのした顔をして火鉢の傍へ坐って老婆と話していた。
「やあ、お父《とっ》さん」
「おお、新一か」
新一は嬉しいので父親の傍へ往って坐った。新三郎はもう老婆からお滝の怪しい挙動《ようす》を詳しく聞いていた。
「お前は偉いことをやったそうだな、偉い、偉い」
新三郎は新一の頭を撫でて云った。
「もう好いだろう、それでおっかながって、来ないだろう、また来るようなら、下谷に御嶽様《おんたけさん》の行者があるから祈祷してもらおう」
新一は墓場のことを思いだしたが、父にはじめから知らしては面白くないので、知らさずにおこうと思って口ヘは出さなかった。
「まあ、ちょっと往って、覗いて来よう」
新三郎はそう云って表座敷へ入って往った。お滝は夜着を脚下に放ね退けて仰向けになって眼をつむっていた。
「お滝」
新三郎が声をかけるとお滝はふっと眼を開けて新三郎の顔を見あげたが、そのまま何にも云わずに寝返りして前向きになってしまった。
「まだ体が悪いのか」
お滝は返事をしなかった。
「まだ気もちがなおらないのだな、まあ、そうして、静にしてるが好い」
新三郎はしかたなしに茶の間へ帰って来た。茶の間には老婆と新一が坐っていた。
「未だほんとうじゃないね」
「どうかいたしましたか」
「俺が声をかけると、ちょっと眼を開けて見といて、すぐ彼方向きになって返事もしないのだよ」
「それでもおとなしくなりましたよ、初めのうちは、どうしようかと思いましたよ、ねえ、坊ちゃん」
「そうだよ、狂人のようにあばれてたなあ」
間もなく夕飯が出来ると新三郎は新一と膳を並べて飯を喫《く》った。其処へお滝の処へ膳を持って往った老婆が帰って来た。
「今晩は、何時になく、私がお膳を持って往くと、黙って喫《た》べましたよ」
その晩新三郎と新一は奥の間へ寝て、老婆は茶の間へ寝たが、その晩もお滝は何事もなかった。
朝飯の後で新三郎は表座敷へ往った。その時はちょうどお滝が便所へ往っていて姿が見えなかったので、其処に立って待っていると間もなく帰って来た。
「おい、まだ体が悪いのか」
お滝は眼を見すえたようにして見ていたが、そのまま返事もせずに寝床の上へ横になってしまった。
「やっぱり悪いのか、それとも俺が判らないのか」
「ものを云うのが煩いよ」
「そうか、体が悪いならしかたがない、ゆっくり寝てるが好い、土産を買って来てあるが、なおってからにしよう」
お滝はもう何も云わなかった。
七
夕月が射していた。新一はその夕月の光で脚下を見ながら寺の卵塔場の中へ入って往った。新一は吉の家へ遊びに往くと云う口実をこしらえて、夕飯が済むと家を出て、そのあたりをぶらぶらしていて時刻を見計って其処へ来たところであった。
新一は懐に短刀を入れ、一方の袂の中に鼠取の袋を入れていた。彼はそうして彼《あ》の狐を斃そうと考えていたが、それをどうして用いるかと云う手段は思いつかなかった。
虫の声が雨の降るように聞えていた。立ち並んだ石碑は月の下に不思議なものの影をこしらえていた。新一はその間を蛩音をさせないようにして歩いた。
がさがさと云う音が直ぐ傍で聞えた。新一は足を止めてその音を聞いた。それは人の蛩音のような蛩音であった。夜になってこんな処を歩いている者は、盗人か何かであろう、普通の人ではあるまいから、見つかるとどんな目にあわされるかも判らない、これは隠れるが好いと思いだしたので、其処にあった五輪塔の陰へ蹲んで覗いていた。
蛩音は直ぐ前に来た。二十二三の壮《わか》い男の姿が其処に見えた。色の白い赤い唇をした※[#「※」は「女+朱」、第3水準1−15−80、56−1]《きれい》な男であった。新一はこの人はべつに盗人のようでもないらしい、どうした人だろうと思いながら腰のほうに眼をつけた。腰には刀も何も見えなかった。
壮い男は、すぐその前の雑草の上へ腰をおろしてしまった。新一は彼《あ》の人はあんな処へ坐って何をするだろうかと思って見ていた。
間もなくまた何処からか蛩音が聞えて此方の方へ来るようであった。新一はついとすると彼の壮い男が此処で何人《たれ》かを待ちあわせているだろうと思ったが、それにしてもこんな処で待ちあわして何をするつもりだろうと思った。
蛩音はすぐ前へ来た。それは僕《げなん》のような容《ふう》をした男でその手には何かものがあった。
二人はやがて何か話しだしたが、何を云っているのか新一の耳へは聞えなかった。そのうちに二人は手に掴んで何か喫《く》いだした。新一は二人の喫っている物は何だろうかと思って透して見たが見えなかった。
二人の話は絶えなかった。話しながら絶えずものを口に持って往った。そのうちに新一は体が苦しくなって来た。彼はそっと体を右の方へ傾けようとしたところで、何かちらちらと動いたような気がしたので、見るともう二人の姿は無くなっていた。
新一はびっくりしてその周囲《まわり》を見廻したがもう影も形も見えなかった。彼はふと怪しい獣のことを考えだした。
新一は起って二人の坐っていた処へ往って蹲んでみた。其処には魚の骨のようなものが散らばっていた。
新一はその魚の骨のようなものをじっと見詰めていたが何か思いついたのかそのまま卵塔場を出て、何くわぬ顔をして己《じぶん》の家へ帰って往った。
家では父親の新三郎が新一の帰るのを待っていた。新三郎は新一を伴れて奥の室《へや》へ往って、老婆の敷いてある寝床の中へ入った。その夜遅くなって新三郎が何かの拍子に眼を覚してみると、お滝の室でお滝が甘ったれたような声をして笑っているのが聞えた。新三郎は老婆から聞いているのでいきなり起きて、隔ての襖を開けて表座敷へ入って往った。其処にはお滝の寝床があるばかりでお滝の姿は見えなかった。新三郎は行灯を持って縁側の障子を開けた。半裸体になったお滝が縁側に肘枕をして横に寝ていた。
「おい、お滝、どうしたのだ、そんな処へ寝ちゃ風邪を引くぜ」
お滝の大きな声が其処から聞えて来た。
「風邪を引こうと引くまいと、余計なお世話だ、彼方へ往ってすっこんでろ、何しに此処へ来るのだ、痴《ばか》」
新三郎は怪しい病気が起ったと思ったので対手にならなかった。
「邪魔すると承知しないぞ、痴、ひょっとこ、彼方へ往きあがれ」
「俺も往くから、お前も此方へ入って、寝るが好いだろう、お前は体が悪い、しっかりせんといかんよ」
「煩い」
「煩くっても、そんな処へ寝ていちゃいけない、入んな」
「お前さんのような奴が、其処にいちゃ入れないよ、痴」
「じゃ、俺は彼方《あっち》へ往くから、入んな」
「煩いよ、余計なことを云うない」
お滝は跳び起きるように起きて新三郎に突っかかって来ようとした。新三郎が体をかわすとお滝はそのまま寝床の上へ往って俯向きになり、大声を出して泣きだした。
「苦しい、苦しい、なんの恨みがあって、俺をこんなに苦しめるのだ」
新三郎は障子を締めて奥の室へ往こうとした。新一が起きて来て其処に立っていた。
「お父《とっ》さん、また狐が来たのだね」
「そうだろう、狐だろう」
翌日になって新三郎は下谷の御嶽行者の処へ往って祈祷を頼んで来た。新三郎はそれで幾等かお滝の病気が好くなるだろうと思っていたが、その一方で新一は油揚げを三枚買い、それに鼠取を入れて卵塔場の中へ持って往った。
その夜お滝は非常に穏かで怪しい挙動《そぶり》もせずに寝た。新三郎も老婆も祈祷のお陰であると思って悦んだ。そして、朝になって皆《みんな》より早く起きた老婆が庖厨《かって》口の戸を開けてみると、簷下《のきした》に一|疋《ぴき》の獣が死んでいた。老婆の声を聞きつけて新三郎も起きて来た。獣は狐であった。その狐の尻尾の附け根には生々しい傷痕があった。其処へ新一がにこにことして起きて来た。
お滝の体は十日ばかりすると元の体になった。新一が狐を殺したことは非常な評判になって、それがため新一は駿河台にあった大きな旗下《はたもと》邸の小供のお伽に抱えられたのであった。
底本:「日本の怪談」河出文庫、河出書房新社
1985(昭和60)年12月4日初版発行
底本の親本:「日本怪談全集」桃源社
1970(昭和45)年初版発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:大野晋
校正:松永正敏
2001年2月23日公開
2001年2月24日修正
青空文庫作成ファイル:
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