五杯も飯を掻き込んだかと思うと、直ぐまた引っくりかえって寝た。新一はそれを奥の襖の間から覗いていた。
夜になって老婆と新一は奥の室《へや》へ寝床を並べてお滝を警戒していた。そして、十時|比《ごろ》になって老婆が睡りかけたところで、表座敷でお滝が艶かしい忍び笑いをするような声をさした。新一はまた怪しい奴が来たと思ったので、いきなり跳び起きて襖を開けて跳び込んで往った。
有明の行灯の灯《ひ》に照らされた、怒った眼で此方を見ている母の顔があるばかりで、べつに怪しいものの姿はなかった。
「この痴《ばか》、何しに来たのだ、邪魔すると承知しないぞ」
「お母《っか》さんの笑い声が聞えたから、また彼奴《あいつ》が来たと思って起きたのです」
「彼奴とはなんだ、ばか、余計なことをすると承知しないぞ」
「でもお母さんが笑ったから」
「煩い」
新一はすごすごと己《じぶん》の寝床へ帰った。
「坊ちゃん、どうかしたのですか」
眼を覚した老婆が声をかけた。
「お母《っか》さんの笑い声がしたがら、往ってみたが、何にも見えなかったよ」
「そうですか、笑い声なんかするのは、おかしいのですね」
「おかしいよ、何が来るだろう」
「さあ」
朝になって老婆が起きてみると、お滝は皆の起きないうちに起きて顔を洗ったと見えて、表座敷へ鏡台や化粧道具を持ち込んで顔に白粉を塗っていた。
やがて朝飯が出来たがお滝が来ないので、老婆はまたお滝の室《へや》へ飯を持って往こうと思って容子を見に往った。きれいに化粧をしたお滝が、夜具の上に腹這《はらば》いになって寝ていた。
「お媽《かみ》さん、御飯が出来ました」
お滝は返事をしなかった。
「此処へ持ってまいりましょうか」
「煩いったら煩いよ、余計なことをお云いでないよ」
老婆は云っても駄目だと思ったので膳を持って来て置いて往った。
四
お滝は表座敷からどうしても出て来なかった。老婆や新一が思いだして覗いてみると敷きっぱなしにしてある夜具の中に包《くるま》っていたり、時とすると夜具の上に腹這いになって何か独言を云っていることもあった。老婆はしかたなしに午飯を持って往った。
その後で老婆は新一と庖厨《かって》で午飯を喫《く》った。新一は飯を喫いながら云った。
「姨《おば》さん何だろうね、お母《っか》さんの処へ来るのは」
「さあね、私にゃ判らないが、なにか魔物が来ますね」
「魔物って何だろう」
老婆はちょと四方《あたり》を見廻した後に小声になって云った。
「狐か狸か、そんな物が来てお媽さんに憑くのじゃないかと思いますがね、どうしても人間じゃないのですよ」
「そうかなあ、狐だろうか」
「早く旦那様が帰ってくださると好いのですが……」
「そうだなあ、お父《とっ》さんが帰ってくれると、狐でも狸でもよう来ないだろうに」
「そうですとも」
夕飯の時にも飯の後で老婆と新一が茶の間の行灯の傍で囁き合っていた。
「今晩は、坊ちゃんは、茶の間へ寝てください、私は奥へ寝ます、そして、どんなものが来るか、気を注《つ》けていようじゃありませんか」
「好いとも、おいらが茶の間で寝よう、そして、へんな奴が来たなら斬ってやる」
「そうですよ、かまうことはない、怪しい奴が来たなら、それこそ斬っておやりなさい」
「斬ってやるよ」
老婆と新一は宵に約束したように寝ることにして、老婆の寝床は奥の室へとり、新一の寝床は茶の間にとって二人は別れ別れに寝たが、その新一の枕頭には行灯を置いてあった。
新一は左の手に持った短刀を外へ見えないように夜着のなかへ隠して、仰向けに寝ながら枕頭の左右に注意していた。
そのうちに夜が刻々と更けて往った。母親も睡っているのか何の音もしなければ、老婆が平生《いつも》の癖の痰が咽喉にこびりつくような咳も聞えない。ただ庖厨の流槽《ながし》の方で鼠であろうことことと云う音が聞えるばかりであった。新一はその音を聞いていたが何時の間にかうとうととして来た。
その新一の耳へ母親の何か独言を云ったような声が聞えた。新一はまた魔物が来たのではあるまいかと思って眼を開けた。そして、すこしも動かずに用心深くまず右の枕頭を注意した。と、その新一の眼に物の影のようなものが映った。新一ははっと思ったが、たしかに見とどけるまでは体を動かしてはならないと思ったので、じっとしたなりに再び其処を見なおした。鼠色をした犬のような獣の後のほうが見えて、それが長い尻尾を畳の上に垂らしていた。新一は夜着の下で短刀を引き抜くなりそれに向って投げつけた。
唸りとも叫びとも判らない微な声がしたかと思うと、もう何も見えなくなって新一の投げた短刀が畳の上に光って見えた。新一は飛び起きてその短刀を拾って四辺《あたり》に注意した。それと同時に表座敷で吠えるように怒鳴る母親の声が聞えて来た。
「……邪魔をしやがって……、……どうするか、見ていやがれ」
新一は母親の声を聞きながら手にした短刀の刃|尖《さき》に眼をやった。血とも脂とも判らない微《うす》赤いねっとりしたものが一めんに附着していた。新一はそれを見てたしかに魔物に当って魔物に傷がついたものだと思ったが、その思うしたから魔物を殺してしまわなかったのが残念になって来た。
母親の怒り狂う声と老婆のおどおどした声が聞えて来た。新一は老婆が眼を覚して母親をなだめに往ったものだと思いながら、室の中を彼方此方と歩いた。それは魔物がそのあたりに倒れていやしないかと思って見ているところであった。
母親の怒鳴る声はすぐ襖の隣へ来た。新一は母親に短刀を見せてはよくないと思ったので、急いで蒲団の上に落ちていた鞘を拾ってそれに納め、すばやく夜着の下へ隠してしまった。
同時に襖が開いて母親のお滝が掴みかかって来た。新一はその母親の手に襟元を掴まれた。
「この畜生……、……巫山戯《ふざけ》たことをしやがる……」
新一は母のするままに任していた。お滝は恨み骨髄に徹したと云うように暫く新一をこづきまわしていたが、そのうちに泣きだして悲しくて悲しくてたまらないと云うように泣いていたが、やがて新一を放して小女《こむすめ》のように顔に袖をやって泣き泣き往ってしまった。
新一と老婆は顔を見合した。新一は苦笑いしていた。
「どうしたのです、坊ちゃん」
老婆が云った。
「犬のような奴が、おいらの寝ている傍へ来たから、あの懐剣を投げつけてやると、唸ってから見えなくなったよ、血のようなものが附いてたのだ、お母《っか》さんは、その時からあばれ出しちゃったよ」
老婆はそれを聞くと考え深そうな眼つきをして頷いた。
「それじゃ、やっぱり狐だ、傷をしたから、もうおっかながって来ないかも判りませんよ」
「そうかなあ」
新一は老婆に短刀を抜いて見せなどして二人で暫く話しあっていたが、もう寝ることにして老婆一人でお滝の傍へ往って見た。お滝は夜着に顔を埋めて泣きじゃくりしていた。
五
ろくろく睡りもせずに夜の明けるのを待ちかねていた新一は、往来で馬の嘶《いなな》く声や人の話声がしだすと寝床を出て庖厨《かって》の戸を開けた。夜はもうきれいに明けて庭には露がしっとりとおりていた。新一は怪しい獣の落した血の痕はないかと思ってそのあたりを見廻ったが、それらしい物は見えなかった。
そこへ老婆も起きて来て、新一といっしょになって見廻ったが、べつにそんなものも見えなかった。で、老婆はその後でまだ開けてない雨戸をすっかり開けてからまた見廻ったが、やはり何も見えなかった。
「やっばり何もないのですね」
老婆は新一に短刀を持って来さして念のために改めてみた。短刀には微黒いものが乾き附いていた。
「たしかにこれは血だがなあ」
新一の耳には短刀を投げた時に怪しいものの発した声が残っていた。
「たしかに唸ったがなあ」
「ぜんたい何処にいるのだろう」
奥庭の前《さき》は寺の境内になって竹の菱垣がしてあったが、この一二年手入をしないので処どころに子供の出入のできるような穴が開いていた。其処は寺の卵塔場になっていて樫や楓・椿などの木が雑然と繁っていた。
「お寺の方へ往ってみよう」
新一はそのまま庭前《にわさき》のほうへ歩いて往った。破れた竹垣の傍には穂のあぎた芒が朝風にがさがさと葉を鳴らしていた。新一は時どきその垣根の破れを潜って卵塔場へ遊びに往くことがあるのでよく案内は知っていた。其処には五輪になった円い大きな石碑や、平べったいのや、角いのや、無数の石塔が立ち並んでいた。木の上では小鳥が無心に啼いていた。
新一はその墓場の中を彼方此方と歩きながら、もしや血が落ちていはしないかと見て廻ったが、足端《あしさき》にこぼれる露があるばかりで色のあるものはなかった。墓の前に植えつけた桔梗の花も見えた。
新一は己《じぶん》の家へ帰って来た。老婆が台所で釜の下を炊いていた。
「姨《おば》さん、何にもいなかったよ」
「お寺の中にはおりませんよ、お祖師様が、そんな悪いものは置きませんから」
「そうかなあ」
朝飯ができて老婆がお滝の室《へや》へ往ってみると、お滝はすやすやと眠っていた。
「お媽《かみ》さんは今朝はよくやすんでますよ、悪いものが離れたかも判りませんよ」
「そうかなあ」
「今晩|験《ため》してみたら判りますよ」
お滝はその日は寝床の中にいることはいたが非常に穏かであった。老婆は気に逆うてはいけないと思ったので、黙って飯を持って往って置いて来ると、お滝は何時の間にか喫《く》ってあった。
「今晩験してみたら判りますよ」
老婆は夕飯を喫いながら新一にこんなことを云った。
「あれで来なくなると好いがなあ」
「もう来ませんよ」
その晩も新一は茶の間で寝て老婆は奥の間に寝ることになった。新一はその晩もついすると怪しいものが来るかも判らないと思って、夜着の下に短刀を隠しながら一方母親の容子に注意していたが、夜半比《よなかごろ》になるとつい睡ってしまった。そして、眼を覚した時には朝になっていた。
「坊ちゃん、もう眼が覚めましたか」
老婆はそこへ起きて来て云った。
「ああ、もう夜が明けたかい、お母《っか》さんはどうだろう」
「昨夜《ゆうべ》、遅くまで起きて、蒲団の上に坐ってたようでしたが、独言も云いませんでしたよ、坊ちゃんの処には、変ったことはなかったのですか」
「ああなかったのだよ」
「じゃ、やっぱり憑物が離れたのですね、これで二三日すりゃ好いのですよ」
「では、彼奴、死んじゃったろうか」
「そうですね、どうかなったのでしょうよ」
その日もお滝は表座敷から出て来なかったがへんな挙動はしなくなった。新一はそれに安心して昼からすぐ近くの朋友《ともだち》の処へ遊びに往った。朋友は吉と云う魚屋の伜であった。二人はその魚屋の入口で顔を合した。
「新ちゃん、この間うち、ちっとも来なかったが、何《ど》うしていたのだ」
「おいらは、お母《っか》さんに狐が憑いたから、それで来なかったよ」
「なに、狐が憑いた、ほんとうかい」
「ほんとうとも、嘘を云うもんか、おいらは、その狐を斬ったよ」
「嘘云ってら、狐が斬れるものか」
「でも、斬ったのだよ」
「じゃ、死んじゃったかい」
「逃げちゃったよ、彼奴を殺したかったよ、どうかして、あんな奴を殺せないかなあ」
「狐は化けるから殺せないよ、家のお父《とっ》さんが云ったよ、狐でも狸でも、銀山の鼠取を喫わせりゃ、まいっちまうって」
「そうかい、銀山の鼠取かい、鼠取ならおいらの家にもあるよ」
新一はそれから吉と一二時間も遊んでいたが、母親のことが気になりだしたので急いでかえって来た。
六
お滝はやはり表座敷から出て来なかったが、その晩もその翌晩も、もう独言も云わなければ怪しい挙動もしなかった。ただ新一は彼《あ》の怪しい獣を逃がしたのが残念でならないので、短刀を抜いて怪しい血糊を見たり、吉から聞いた銀山の鼠取のことを考えてみたりした。
某日《あるひ》新一は、やはりその怪しい獣のことを考えながら、往くともなしに寺の
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング