《かみ》さん」
 お滝はきっと眼を開けて老婆の姿を見ると口を尖らした。
「煩いよ、何故此処へ来て邪魔をするのだね、彼方へお出でよ」
「まいりますがね、お媽さんの心地《きもち》は、何ともありませんか」
「煩いったら煩いよ、彼方へお出でよ」
 老婆はしかたなしに引返して来た。茶の間には新一が老婆の帰って来るのを待っていた。
「お母《っか》さんはどうしているの」
「睡っていたのですが、やっぱりおかしいのですよ」
「おかしいって、どうなのだ」
「やっぱり昨夜のように、彼方へ往けって、私を怒ったのですよ」
「そうかい、ヘんだなあ」
 昼飯になったところでお滝が室を出て来ないので老婆はまた呼びに往った。お滝は坐って何か考えているような容《ふう》をしていた。
「お媽さん、御飯はいかがでございます」
 お滝は顔をあげて老婆の方をちょと見てからまた俯向いた。
「いらないよ」
 老婆は困ってしまった。
「でも、すこしおあがりになっては」
「いらないと云ったらいらないよ」
「でも、御飯をおあがりにならないと、お体のために悪うございますよ、では、此処へ持って来ときますから、何時でも好い時にあがってくださいよ」
「煩い」
 それでも老婆は打っちゃって置けないので、膳と飯鉢を持って来てお滝の傍へ置いて往った。
「此処へ置いてまいりますから、好い時におあがりになってください」
 新一は老婆がそうする間も茶の間にいて母のことを心配していた。新一の処へは遊び仲間が時どき誘いに来たが、彼は母が心配であるから往かなかった。
 そのうちに夕方となったがお滝は出て来なかった。老婆は夕飯のことを思いだして其処の室へ往ってみた。お滝は腹這いになって足をとんとんとやっていたが、膳の上を見ると飯を喫《く》ったと見えてお菜《かず》を荒してあった。
「御飯を持ってまいりましょうか」
 お滝はやはり足をとんとんとやって返事をしなかった。老婆はその膳と飯鉢を持って台所のほうへ引返して、膳を洗い拵えたてのお菜をつけて、またお滝の傍へ持って往った。
「夕飯を持ってまいりましたから、おあがりなさい」
 お滝は床の方を向いて肘枕をして寝ていた。
「いらないよ、彼方へお出で」
 老婆が出て往って襖の締る音がすると、お滝は急に頭をあげて茶の間の方を見た後に、くるりと起きあがり、忙《せわ》しそうに膳を引き寄せて飯を喫いだした。そして、四五杯も飯を掻き込んだかと思うと、直ぐまた引っくりかえって寝た。新一はそれを奥の襖の間から覗いていた。
 夜になって老婆と新一は奥の室《へや》へ寝床を並べてお滝を警戒していた。そして、十時|比《ごろ》になって老婆が睡りかけたところで、表座敷でお滝が艶かしい忍び笑いをするような声をさした。新一はまた怪しい奴が来たと思ったので、いきなり跳び起きて襖を開けて跳び込んで往った。
 有明の行灯の灯《ひ》に照らされた、怒った眼で此方を見ている母の顔があるばかりで、べつに怪しいものの姿はなかった。
「この痴《ばか》、何しに来たのだ、邪魔すると承知しないぞ」
「お母《っか》さんの笑い声が聞えたから、また彼奴《あいつ》が来たと思って起きたのです」
「彼奴とはなんだ、ばか、余計なことをすると承知しないぞ」
「でもお母さんが笑ったから」
「煩い」
 新一はすごすごと己《じぶん》の寝床へ帰った。
「坊ちゃん、どうかしたのですか」
 眼を覚した老婆が声をかけた。
「お母《っか》さんの笑い声がしたがら、往ってみたが、何にも見えなかったよ」
「そうですか、笑い声なんかするのは、おかしいのですね」
「おかしいよ、何が来るだろう」
「さあ」
 朝になって老婆が起きてみると、お滝は皆の起きないうちに起きて顔を洗ったと見えて、表座敷へ鏡台や化粧道具を持ち込んで顔に白粉を塗っていた。
 やがて朝飯が出来たがお滝が来ないので、老婆はまたお滝の室《へや》へ飯を持って往こうと思って容子を見に往った。きれいに化粧をしたお滝が、夜具の上に腹這《はらば》いになって寝ていた。
「お媽《かみ》さん、御飯が出来ました」
 お滝は返事をしなかった。
「此処へ持ってまいりましょうか」
「煩いったら煩いよ、余計なことをお云いでないよ」
 老婆は云っても駄目だと思ったので膳を持って来て置いて往った。

       四

 お滝は表座敷からどうしても出て来なかった。老婆や新一が思いだして覗いてみると敷きっぱなしにしてある夜具の中に包《くるま》っていたり、時とすると夜具の上に腹這いになって何か独言を云っていることもあった。老婆はしかたなしに午飯を持って往った。
 その後で老婆は新一と庖厨《かって》で午飯を喫《く》った。新一は飯を喫いながら云った。
「姨《おば》さん何だろうね、お母《っか》さんの処へ来るのは」
「さあね、私にゃ判らないが
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