ございますよ、たしかに男でしたが」
 其処へ新一が起きて来た。
「また来たのか、しまったなあ」

       二

 その翌晩は奥の室へも行灯を点けて、新一と老婆が境の襖を多く開けて警戒していた。新一は己《じぶん》の守刀の短刀を寝床の下へ敷いてあった。
 お滝はもう睡ったのか咳《しわぶき》の声も聞えなくなった。新一と老婆は己達が睡ると、また彼《あ》の怪しい奴が来るとおもったので、なるだけ睡らないようにと、小声で話し合ってみたり、顔を見合せたりしていたが、そのうちに老婆の方は昼の疲れが出て来たのか睡ってしまった。新一は姨《おば》さんが睡っても、己は決して睡るまいと思って気を張っていたが、これも気を張ったなりに何時の間にか睡ってしまった。
「……起きてくださいよ……、坊ちゃん……、……坊ちゃん」
 新一は肩のあたりを揺り動かされて眼を覚したが、その起している者が姨《おば》さんだと云うことを知ると、きっと怪しい奴が来ているなと思った。
「来たのかい」
「お媽《かみ》さんがいないのですよ、何処《どっ》かへ往ったのでしょうかね」
 新一は跳び起きて表座敷の方へ往った。母親の寝床があるばかりでその姿は見えなかった。
「便所《はばかり》へでもいらっしたのだろうか」
 後から来た老婆が云った。
「そうかも判らない、お前、往って見てお出でよ」
 老婆は困った顔をした。
「見てお出でって、坊ちゃん、こんな時には、うっかり出られませんよ」
「だって、お母《っか》さんがいないじゃないか」
「便所へでも往ってるか判りませんよ、もすこし待って見ましょう」
 新一はもどかしくなって来た。
「そんなことを云って、お母さんがどうかなったらどうする、お前が厭ならおいらが往ってくる」
 新一は行灯を持って其処の障子を開けて縁側へ出た。老婆もしかたなしにその後から踉いて往った。縁側の右の突きあたりが便所になっていた。新一は其処へ往った。
「お母さん、……お母さん」
 中からは何の返事もなかった。新一は室《へや》の中へ入って今度は茶の間との境になった襖を開けた。茶の間には半裸体になった母親のお滝が、仰向けになってだらしなく寝ていた。
「お母さんだ」
「あら、お媽さん」
 二人は驚いて叫んだ。それでも二人は安心した。老婆はお媽さんの傍へ往って起そうとした。その拍子にお滝の眼が開いた。
「何人だい、此処へ来て邪魔するのは、彼方へお出でよ、ひとの寝間なんぞ覗きに来やがって」
 老婆は驚いてやろうとした手を引込めた。
「お母さん、だめだよ、そんな処に寝ていちゃ、風邪を引くよ」
 新一は叱るように云った。
「痴《ばか》、お黙り、余計なことを云うと承知しないよ」
 老婆は困ってしまった。どう云って伴れて往ったものだろうかと思っていると、お滝は急に起きあがって、どかどかと表座敷へ入って往った。二人はあっけに執られていたが、その挙動が心配であるから後から踉いて往った。と、お滝は寝床の中へもぐり込むなり頭から夜着を被《かぶ》ってしまった。
「何人も此処へ来ちゃいけない、彼方《あっち》へ往っておくれ、煩《うるさ》い」
 老婆と新一は困って其処に立っていたが、そのうちにお滝の寝呼吸《ねいき》が聞えだしたので、二人は奥の室へ帰って寝たが睡られなかった。わけて新一は怪しい母の挙動が心配になって来て朝まで睡れなかった。
 朝になってみると、お滝は平生《いつも》のようにおとなしく起きて、新一といっしょに朝飯を喫《く》ったがベつに変ったこともなかった。ただ新一がへんに思ったのは、何か物を見詰めているような光のある眼の色をしていることであった。新一は昨夜の母の挙動を口に出して云うことができなかった。
 飯が済むとお滝は表座敷へ入って往ったが、障子も襖もぴったり締めてしまって、外からはすこしも見えないようにして坐っていた。老婆と新一はいよいよ常事《ただごと》でないと思って心配しながら囁き合った。
「姨《おば》さん、お母《っか》さんはへんだね」
「そうでございますよ、どうもへんですよ、昨夜のことと云い、へんな男が襖を開けずに入って来たり、おかしいのですよ」
「何だろうね」
「どうも人間じゃないのですよ」
「なんだろう」
「そうねえ、しかし、たしかに人間じゃありませんよ、人間なら、襖を開けるなり、戸を開けるなりしますよ」
「お父《とっ》さんが早く帰ってくれると、好いなあ」
「そうでございますよ、旦那様さえ早く帰ってくださるなら、どうかなるのでしょうが」
「そうだ、お父さんが帰ってくれると、好いなあ」

       三

 その後で老婆はお滝の体の工合を聞こうと思って室《へや》の中へ入った。室の中ではお滝が肘枕をして仮睡《うたたね》をしていた。老婆は吃驚させないように小さな声で云った。
「もし、もし、お媽
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