夕月が射していた。新一はその夕月の光で脚下を見ながら寺の卵塔場の中へ入って往った。新一は吉の家へ遊びに往くと云う口実をこしらえて、夕飯が済むと家を出て、そのあたりをぶらぶらしていて時刻を見計って其処へ来たところであった。
 新一は懐に短刀を入れ、一方の袂の中に鼠取の袋を入れていた。彼はそうして彼《あ》の狐を斃そうと考えていたが、それをどうして用いるかと云う手段は思いつかなかった。
 虫の声が雨の降るように聞えていた。立ち並んだ石碑は月の下に不思議なものの影をこしらえていた。新一はその間を蛩音をさせないようにして歩いた。
 がさがさと云う音が直ぐ傍で聞えた。新一は足を止めてその音を聞いた。それは人の蛩音のような蛩音であった。夜になってこんな処を歩いている者は、盗人か何かであろう、普通の人ではあるまいから、見つかるとどんな目にあわされるかも判らない、これは隠れるが好いと思いだしたので、其処にあった五輪塔の陰へ蹲んで覗いていた。
 蛩音は直ぐ前に来た。二十二三の壮《わか》い男の姿が其処に見えた。色の白い赤い唇をした※[#「※」は「女+朱」、第3水準1−15−80、56−1]《きれい》な男であった。新一はこの人はべつに盗人のようでもないらしい、どうした人だろうと思いながら腰のほうに眼をつけた。腰には刀も何も見えなかった。
 壮い男は、すぐその前の雑草の上へ腰をおろしてしまった。新一は彼《あ》の人はあんな処へ坐って何をするだろうかと思って見ていた。
 間もなくまた何処からか蛩音が聞えて此方の方へ来るようであった。新一はついとすると彼の壮い男が此処で何人《たれ》かを待ちあわせているだろうと思ったが、それにしてもこんな処で待ちあわして何をするつもりだろうと思った。
 蛩音はすぐ前へ来た。それは僕《げなん》のような容《ふう》をした男でその手には何かものがあった。
 二人はやがて何か話しだしたが、何を云っているのか新一の耳へは聞えなかった。そのうちに二人は手に掴んで何か喫《く》いだした。新一は二人の喫っている物は何だろうかと思って透して見たが見えなかった。
 二人の話は絶えなかった。話しながら絶えずものを口に持って往った。そのうちに新一は体が苦しくなって来た。彼はそっと体を右の方へ傾けようとしたところで、何かちらちらと動いたような気がしたので、見るともう二人の姿は無くなっていた。
 新一はびっくりしてその周囲《まわり》を見廻したがもう影も形も見えなかった。彼はふと怪しい獣のことを考えだした。
 新一は起って二人の坐っていた処へ往って蹲んでみた。其処には魚の骨のようなものが散らばっていた。
 新一はその魚の骨のようなものをじっと見詰めていたが何か思いついたのかそのまま卵塔場を出て、何くわぬ顔をして己《じぶん》の家へ帰って往った。
 家では父親の新三郎が新一の帰るのを待っていた。新三郎は新一を伴れて奥の室《へや》へ往って、老婆の敷いてある寝床の中へ入った。その夜遅くなって新三郎が何かの拍子に眼を覚してみると、お滝の室でお滝が甘ったれたような声をして笑っているのが聞えた。新三郎は老婆から聞いているのでいきなり起きて、隔ての襖を開けて表座敷へ入って往った。其処にはお滝の寝床があるばかりでお滝の姿は見えなかった。新三郎は行灯を持って縁側の障子を開けた。半裸体になったお滝が縁側に肘枕をして横に寝ていた。
「おい、お滝、どうしたのだ、そんな処へ寝ちゃ風邪を引くぜ」
 お滝の大きな声が其処から聞えて来た。
「風邪を引こうと引くまいと、余計なお世話だ、彼方へ往ってすっこんでろ、何しに此処へ来るのだ、痴《ばか》」
 新三郎は怪しい病気が起ったと思ったので対手にならなかった。
「邪魔すると承知しないぞ、痴、ひょっとこ、彼方へ往きあがれ」
「俺も往くから、お前も此方へ入って、寝るが好いだろう、お前は体が悪い、しっかりせんといかんよ」
「煩い」
「煩くっても、そんな処へ寝ていちゃいけない、入んな」
「お前さんのような奴が、其処にいちゃ入れないよ、痴」
「じゃ、俺は彼方《あっち》へ往くから、入んな」
「煩いよ、余計なことを云うない」
 お滝は跳び起きるように起きて新三郎に突っかかって来ようとした。新三郎が体をかわすとお滝はそのまま寝床の上へ往って俯向きになり、大声を出して泣きだした。
「苦しい、苦しい、なんの恨みがあって、俺をこんなに苦しめるのだ」
 新三郎は障子を締めて奥の室へ往こうとした。新一が起きて来て其処に立っていた。
「お父《とっ》さん、また狐が来たのだね」
「そうだろう、狐だろう」
 翌日になって新三郎は下谷の御嶽行者の処へ往って祈祷を頼んで来た。新三郎はそれで幾等かお滝の病気が好くなるだろうと思っていたが、その一方で新一は油揚げを三枚買い、それに鼠取を入
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