怒鳴る母親の声が聞えて来た。
「……邪魔をしやがって……、……どうするか、見ていやがれ」
 新一は母親の声を聞きながら手にした短刀の刃|尖《さき》に眼をやった。血とも脂とも判らない微《うす》赤いねっとりしたものが一めんに附着していた。新一はそれを見てたしかに魔物に当って魔物に傷がついたものだと思ったが、その思うしたから魔物を殺してしまわなかったのが残念になって来た。
 母親の怒り狂う声と老婆のおどおどした声が聞えて来た。新一は老婆が眼を覚して母親をなだめに往ったものだと思いながら、室の中を彼方此方と歩いた。それは魔物がそのあたりに倒れていやしないかと思って見ているところであった。
 母親の怒鳴る声はすぐ襖の隣へ来た。新一は母親に短刀を見せてはよくないと思ったので、急いで蒲団の上に落ちていた鞘を拾ってそれに納め、すばやく夜着の下へ隠してしまった。
 同時に襖が開いて母親のお滝が掴みかかって来た。新一はその母親の手に襟元を掴まれた。
「この畜生……、……巫山戯《ふざけ》たことをしやがる……」
 新一は母のするままに任していた。お滝は恨み骨髄に徹したと云うように暫く新一をこづきまわしていたが、そのうちに泣きだして悲しくて悲しくてたまらないと云うように泣いていたが、やがて新一を放して小女《こむすめ》のように顔に袖をやって泣き泣き往ってしまった。
 新一と老婆は顔を見合した。新一は苦笑いしていた。
「どうしたのです、坊ちゃん」
 老婆が云った。
「犬のような奴が、おいらの寝ている傍へ来たから、あの懐剣を投げつけてやると、唸ってから見えなくなったよ、血のようなものが附いてたのだ、お母《っか》さんは、その時からあばれ出しちゃったよ」
 老婆はそれを聞くと考え深そうな眼つきをして頷いた。
「それじゃ、やっぱり狐だ、傷をしたから、もうおっかながって来ないかも判りませんよ」
「そうかなあ」
 新一は老婆に短刀を抜いて見せなどして二人で暫く話しあっていたが、もう寝ることにして老婆一人でお滝の傍へ往って見た。お滝は夜着に顔を埋めて泣きじゃくりしていた。

       五

 ろくろく睡りもせずに夜の明けるのを待ちかねていた新一は、往来で馬の嘶《いなな》く声や人の話声がしだすと寝床を出て庖厨《かって》の戸を開けた。夜はもうきれいに明けて庭には露がしっとりとおりていた。新一は怪しい獣の落した
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