蕎麦餅
田中貢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)許州《きょしゅう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|娘子《じょうし》
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唐の元和年中のことであった。許州《きょしゅう》の趙季和《ちょうきか》という男が東都に往く要事が出来たので、家を出て卞州《べんしゅう》の西になった板橋店《はんきょうてん》まで往った。
その板橋店には三|娘子《じょうし》という宿屋があった。そこには三娘子という独身者の寡婦がいて、永い間旅人に食物を売る傍ら、数多《たくさん》の驢馬を飼って非常に安価で売るので、板橋店の三娘子といえば驢馬の店としても有名であった。旅人の季和も一泊りも二泊りも前からその名を聞いていたので、板橋店に入るとその家を尋ねて往った。
もう日が暮れて燈火が点《つ》いていた。季和が門口へ往って扉《と》を叩くと、瘠せた婆さんが顔を出した。季和はすぐそれがお媽《かみ》さんの三娘子であろうと思って、
「お宅が、旅人に深切《しんせつ》にしてくれるということを聞いて尋ねてきました、今晩どうか泊めてください」
と、言うと婆さんは愛想笑いをした。
「いや、もう、別におかまいもいたしませんが、お客さん方が、よく御贔屓にしてくださいます、さあ、お入りください、ちょうど、皆さんに御飯をあげてるところでございます」
中を見ると六七人の旅人が大きな卓へ向きあって酒を飲んでいた。皆の前に置いた皿からは温かそうな湯気がもやもやと立っていた。
「貴郎《あなた》も彼処《あすこ》へ腰をおかけなさい、食べる物とお酒をあげます」
婆さんは指で空いた牀《こしかけ》を教えた。
「私は下戸《げこ》だから、酒はいらない、食べる物をもらいたいが」
酒は一滴もいけない季和はそう言って断った。
「一杯位はよろしゅうございましょう」
「有難いが、私は一滴も飲めない」
「では、食物をあげましょうか」
婆さんは次の室《へや》へ入って往った。季和は卓の方へ往って皆に挨拶をしながら腰をかけた。酒に酔うてもういい気もちになっている者もあった。皆ちょっとの間季和の方へ注意を向けたが、すぐ忘れてしまったように隣同士で話をはじめる者もあれば、自個《じぶん》の陶酔《とうすい》の世界に帰って往く者もあった。
やがて婆さんが二個の皿へ盛った食物を持ってきた。季和はそれをもらって黙って喫《く》った。
食事がすむと皆が一緒になって次の室へ往って寝た。室の中には燈火が一つ点いていた。食事の時から話していた話をそこへまで持ってきて、大声で話しあっていた男の声もやがて聞えなくなった。鼾《いびき》の声があっちこっちに聞えてきた。
季和は眼が冴えて睡れなかった。彼は右枕になってみたり、左枕になってみたりして身体を動かしていた。扉《と》を開ける音がして何人《だれ》かが入ってきた。それは婆さんであった。婆さんは皆の寝姿を一通り見ておいて、燈火を持って往こうとした。婆さんの眼と季和の眼が合った。
「早くお寝みなさいよ、よく寝ないと、明日苦しいから」
季和はちょっと頷いて見せた。婆さんは出て往った。後は真暗になってしまった。季和は早く睡ろうと思って無理に眼を閉《つむ》って、何も考えないようにして睡ろう睡ろうとしたが、そんなことをするとなおさら睡れない。半時《はんとき》あまりもそんなにしていたが、苦しくてしかたがないのでまた左枕に枕を変えた。
ぶつぶつと言うような声が聞えた。それは隣の室からであった。そこは荒壁になっていて土の崩れた壁の穴から隣の室の燈火が滲みだしたように漏れて見えた。季和はどんな者が隣にいるだろうかとちょっとした好奇心を動かした。彼は寝床から這いだして壁の穴から窺《のぞ》いてみた。
不思議な光景が季和の眼に映った。竈《へっつい》の前に坐った婆さんが、六七寸ばかりある木の人形を二個《ふたつ》前に置いて、それに向って両手の指を胸の処で組み合せてまじないでもするようにしていた。季和は変なことをするものだと思って眼もひかずに見ていた。
婆さんは祈をすました。祈がすむと起ちあがって、傍にあった水桶から杓《ひしゃく》を取り、その水を一口飲んで人形に吹きかけた。人形は人の形をしたのと牛の形をしたのとであった。
人形に水をかけてどうするだろうと季和は思った。そう思って季和が人形に注意を向けたときであった。今まで横になっていた人形が魂の入ったようにむくむくと動きだした。すると、婆さんは傍にあった小さな箱の中へ手をやって、小さな鍬《くわ》や鋤《すき》の形をした物を出して前に置いた。
季和は体が硬ばったようになった。人形はその鋤を牛につけ、その牛を走らしてそのまわりを耕しはじめた。牛の後で人形は鍬を持った。まわりは見る見る耕地になって往った。婆さんはま
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