蟹の怪
田中貢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)戸波《へは》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)姉様|冠《かぶ》り
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な顔
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お種は赤い襷をかけ白地の手拭を姉様|冠《かぶ》りにして洗濯をしていた。そこは小さな谷川の流れが岩の窪みに落ち込んで釜の中のようになった処であった。お種は涼しいその水の上に俯向いて一心になって汚れ物を揉んでいた。
そこは土佐の高岡郡、その当時の佐川領になった長野から戸波《へは》へ越す日浦坂の麓であった。そして、お種の洗濯している谷川の流れは、日浦坂の上にある、ほど落ちと云う池から来ているもので、流れは小さいが如何なる炎天にも枯れることがないと云われていた。
谷川の縁には薊の花が咲き青芒の葉が垂れて、それが流れの上にしなえて米粒のような泡をからめていた。お種はもう三枚目の衣《きもの》を洗いあげて絞って岩の上に置き、脚下に浸してあった浅黄の股引を執って洗いだしたが、右の肩のあたりが硬ばって苦しいのでちょっと手を休めたところで、
「お種さん」
と、云って己《じぶん》の名を呼ぶ声がした、お種は何人《だれ》だろうと思って考えてみたが、耳なれない声であるから猪作でもなければ伝蔵でもないと思った。お種はその声が猪作でないことはうれしかったが、伝蔵でないと知った時にはものたりなかった。お種は猪作でもない伝蔵でもないとしたら何人が呼んだろうと思いながら、見るともなしに水の上に眼をやった。朝陽を受けて水に映った己《じぶん》の影の上に、その時大きな物の影がふうわりとかかったが、それは人間の手のような、また見ようによっては蟹の鋏のようにも見える鬼魅《きみ》の悪いものだった。お種ははっとした。
「お種さん、お種さん」
と、初めの声がまた呼んだ。お種は気が注《つ》いて揮《ふ》りかえった。紫色の振袖を着た十五六の女のような少年が道の上に立っていた。お種は一眼見て何処かのお寺の稚児さんだろうと思った。
「お種さんは、私を忘れたの」
と、少年はにっと笑った。お種はどうしてもその少年に見覚えがなかった。お種はしかたなしに、
「どなたでございましたか」
と、云ったがひどく恥かしくて顔のほてるのを覚えた。
「今に判ります、それでは、また近いうちにお眼にかかります」
と、少年はまたにっと笑って体の向きをかえ、日浦坂の方へ歩いていった。お種はうっとりとなってその後姿を見送りながら、あんなに親しく口を利くからには知っている人にちがいないが、何処で逢った人だろうと考えてみたがどうしても思いだせなかった。ただ、ああして日浦坂の方へ往くところを見ると、積善寺《しゃくぜんじ》の稚児さんであろう、積善寺なら彼処《あすこ》のお薬師様へは、時おり参詣したことがあるからと思った。
お種は何時の間にか体を真直にしていた。少年の姿はすぐ雑木の陰に隠れてしまったが、お種はうっとりとなってそのまま立っていた。
お種はその日の夕方、母親といっしょに平生《いつも》のように夕飯の準備《したく》をしたが、その準備ができて家内の者が食事をはじめているのに、裏口の微暗い蚊の声のする処にぽつねんと立っていた。それを見て母親が云った。
「お種はそこで、何をぼんやりしよる、はよう飯を喫《たべ》たらいいじゃないか」
「うウ」
お種はまだぼんやりしているので母親が畳みかけて云った。
「はよう飯を喫て、与平さんのところに湯が沸いたと云うから、もろうて入って来た」
「あい」
お種はやっと気が注いたようにあがって来て母親の傍で飯を喫《く》ったが、平生《いつも》のように喫わないですぐ茶碗を置いた。
「今晩は、ふだんのように飯を喫わんが、心地でもわるいか」
「わるうない、なんともない」
お種は母親の顔を見た。
「なんともなけりゃ、これから往て、湯に入って来た」
「あい」
「おそうなったら、湯がきたのうなる、はやいがいい」
「あい」
お種は土間へおりて手拭竿から手拭を執り、糠袋を持って表へ出た。月が出て外は明るかった。お種は門口の二三段の石段をおりて家の下の道を右の方へ往った。道の右側は並んだ人家の下の低い崖で、左側は勾配の緩い畑地であったが、其処には熟した麦があり蜀黍《もろこし》があり、麻があり柿の木があった。
お種の往った家は半丁ばかり離れていた。其処は家の前に蜜柑や枇杷を植えてあった。お種はその果樹園の中を通って往き、裏の馬小屋と雪隠《せっちん》の境にたてた五右衛門風呂の口で、前《さき》に来ている三人ばかりの人の順じゅんに入
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