るのを待っていた。
「今度はお種さんの番じゃ、はよう入るがいい、良い人が何処ぞで待ちよる」
 お種の後から来ている老人がからかいながら云った。すると風呂桶から出ようとしている婦《おんな》が云った。
「お種さんのような女《むすめ》を待たいで、何人《だれ》を待つもんか、お種さんはよう来い」
 お種はそこで湯に入って帰りかけた。霧がかかって月の光がぼんやりしていた。門口の果樹園まで帰ったところで、其処の暗い処からひょいと出て来た者があった。
「お種さん」
 それはまぎれもなく猪作の声であった。お種は厭な者に逢ったものだと思った。
「お種さん、そんなに嫌うもんじゃないよ」
 お種はしかたなしに足を止めた。
「嫌やせんよ」
「嫌わなけりゃ、私《あし》の話を聞いてもらいたい」
 背のずんぐりした角顔の壮佼《わかいしゅ》の顔があった。
「どんな話」
「べつにどんな話でもない、こちへ来てみい」
「何処へ往く」
「此処でいい、もすこし中へはいり、人に見える」
「いやよ、そんな処へ往くは、用事があるなら翌日《あした》の午聞く」
 お種は恐ろしくなったので走って逃げようとした。と、男の手が蛇のように体にまきついた。
「いや、なにをする」
「そんなに嫌うもんじゃないよ」
 お種は体の自由を失ってしまった。男はそのままお種を抱きかかえて、果樹の茂みの中へ入って往こうとした。その男の眼の前に不意に閃いたものがあった。男はお種を突き放してその手で両眼を被いながら、
「あッ」
 と、叫んで後へ飛びすさった。男の眼の前には大きな紫色をした鋏のような物が閃いたのであった。男は燕のように身を飜えして逃げて往った。
 お種は抱きかかえられる間もなく突きはなされたので、よろよろとして倒れそうになったのをやっと踏みこたえた時に、門の前の霧の中へ逃げ込んで往く男の後姿を見た。お種はこれは何人《たれ》か人が来たから逃げたものだろうと思って、安心して待っていたが何人も来なかった。

 翌日からお種は仕事が手につかなくなった。彼女はしかけていた仕事の手を止めてぼんやりしたり、家の前に出て立ったりした。洗濯にやってみると僅か二三枚の衣《きもの》に朝出て往って午近くなっても帰らないので、母親が呼びに往ってみるとお種は谷川の水際にぼんやりと立っていた。
 その夜伝蔵が仕事のかえりに寄った。伝蔵は戸波の家俊から日傭稼ぎに来て
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