かかりゃ、一箇月もかからんと思います」
「しかし、可哀そうじゃ、大事にしてやれ、何かの事はつごうよく取りはかろうてやる」
「どうもありがとうございます」
権兵衛は其の眼を港の口の方へやった。其処には釜の形をした大きな岩礁が小山のように聳《そび》えたっていたが、人夫の影はなかった。
「それでは往こうか」
権兵衛は歩きだした。松蔵と総之丞は其の後から往った。
三
権兵衛は釜礁《かまばえ》の上の方へ往った。人夫たちは釜礁を離れて其の右側の大半砕いてある礁の根元を砕いていた。其処には赤|泥《どろ》んだ膝まで来る潮《うしお》があった。
どっかん、どっかん、どっかん。
権兵衛は右側の礁にかかっている人夫だちの方を見ていたが、やがて其の眼を松蔵へやった。
「松蔵」
「へい」
松蔵は権兵衛に並ぶようにして前へ出た。権兵衛は屹《きっ》となった。
「松蔵、岩から血が出るの、小坊主が出るのと云うのは、迷信と云うもので、そんな事はないが、神様は在る。神様はお在りになるが、神様は決して邪《よこしま》な事はなさらない、神様は吾われ人間に恵みをたれて、人間の為よかれとお守りくだされる。従って良《え》え事をする者は神様からお褒めにあずかる。此の港は、此の土佐の荒海を往来《ゆきき》する船のために、普請をしておるからには、神様がお叱りになるはずはない。此《こ》の比《ごろ》暫く大暴風《おおじけ》もせず、大波もないが、これは神様のお喜びになっておる証拠じゃ。それに此の普請は、此の釜礁を砕いてしまえば、すぐにりっぱな港になる。一日でも早くりっぱな港を作ることは、神様はお喜びにこそなれ、お叱りになることはないと思うが、其の方はどう思う」
「へい」
と云ったが、松蔵はそれに応える事ができなかった。総之丞が松蔵のために応えなくてはならぬ。
「それは一木殿のお詞《ことば》のとおりでございます。神様は人の為こそ思え、人を苦しめるものではございませんから、人のために作っておる港の、邪魔をするはずはありません」
権兵衛は頷いた。
「そうとも、其のとおりじゃ」松蔵を見て、「松蔵、判るか」
松蔵にもおぼろげながら其の意は判った。
「判ります」
「それでは、礁を破るに憚る事はないぞ」
「そりゃ、そうでございます」
「それが判ったなら、皆に其の事を云え」
「云いましょう、云います」
「云え、云い聞かせ」
「へい」
松蔵は何かに突き当って困ったような顔をしながら石垣を降りて往ったが、其のうちに彼方此方《あっちこっち》から松蔵の傍へ人夫たちが来はじめた。人夫の中には鉄鎚《かなづち》を手にした者もあった。権兵衛と総之丞は黙ってそれを見ていた。
松蔵の傍へは五十人ばかりの人夫が集まって来て、それが松蔵を囲んで頭を並べた。松蔵の話がはじまったところであった。
暫くすると其の人夫の中に、不意に口を開けて黄色な歯を見せる者があった。何かを笑っているところであろう。権兵衛は眼を見すえた。見すえる間もなく、人夫は松蔵の傍を離れて散らばって往った。総之丞は権兵衛に呼びかけた。
「話がすんだようでございますが」
「うん」
権兵衛は人夫の方から眼を放さなかった。総之丞もそれに眼をやった。人夫はまた右側の礁の方へ往って、どっかんどっかんとやりだしたが、釜礁にかかる者はなかった。
「かからんようでございますが、話が判りますまいか」
「判らん、困ったものじゃ」
「愚《おろか》な者どもでございますから、物の道理が判りません」
「うん」
権兵衛は眼をつむっていた。総之丞は口をつぐんだ。陸《おか》の方から堰堤の上をどんどん駆けて来た者があった。普請役場の小厮《こもの》に使っている武次《たけじ》と云う壮佼《わかいしゅ》であった。
「旦那、一木の旦那」
武次は呼吸《いき》をはずまして額に汗を浸ませていた。権兵衛は武次を見た。
「何か用か」
「用どころか、お殿様じゃ」
権兵衛は眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。
「なに、おとのさま」
「二十人も三十人も馬に乗って、氏神様のお神行《なばれ》のようじゃ」
「藩公が来られたか」
「はんこうか、鮟鱇《あんこう》か知らんが、高知の城下から来たそうじゃ」
「真箇《ほんと》か。真箇ならお出迎いをせんといかんが」
「早川《はやかわ》さんが、早く往って呼《よ》うで来いと云うたよ、早川さん、歯の脱けた口をばくばくやって、周章《あわ》てちょる」
「くだらん事を云うな」
権兵衛は叱りつけておいて陸の方へ急いだ。其の時沙と礁の破片《かけら》を運んでいた人足の群も、陸の方に異状を認めたのか、皆陸の方を見い見い口ぐちに何か云っていた。権兵衛は其の人夫の間を潜《くぐ》って陸の方へ往った。
磯の沙浜には処《ところ》どころ筆草《ふでくさ》が生えていた。其処は緩い傾斜になって夫其の登り詰《づめ》に松林があり普請役場の建物があった。其の役所の向前《むこう》は低い丘になって、其処に律照寺《りっしょうじ》と云う寺があったが、浜の方から其の寺は見えなかった。其の律照寺は四国巡礼二十五番の納経所《ふだしょ》で、室戸岬の丘陵の附根にある最御崎寺《ほずみさきじ》の末寺で、普通には津寺《つでら》の名で呼ばれていた。
権兵衛は役所の近くまで往った。其処に二疋の馬がいて傍に陣笠を冠った旅装束の武士が二人立ち、それと並んで権兵衛の下僚《したやく》の者が二三人いた。権兵衛は急いで陣笠の武士の傍へ往った。武士の一人は国老《かろう》の孕石小右衛門《はらみいしこえもん》であった。
「これは御家老様でございますか」
「おお、権兵衛か」
「承《うけたま》わりますれば、殿様がお成りあそばされたそうで、さぞお疲れの事と存じます」
「なに、急に御微行《ごびこう》になられる事になって、今朝城下を出発したが、かなりあるぞ」
「二十里でございますから、お疲れになられましたでございましょう、それで殿様は」
「東寺《ひがしでら》へずっとお成りになった」
東寺は最御崎寺の事で、其処は四国巡礼二十四番の納経所になり、僧|空海《くうかい》が少壮の時、参禅|修法《すほう》した処であった。
「それでは、私もこれからお御機嫌を伺いにあがります」
「今日は来いでもええ、明日此処へお成りになる事になっておる」
「さようでございますか、それでは、今日はさし控えておりましょうか」
「それがええ」それから物を嘲《あざけ》るような眼つきをして、港の方へ頤《あご》をやって、「権兵衛、池が掘れかけたようじゃが、彼処《あすこ》へ鯉《こい》を飼うか、鮒《ふな》を飼うか」
それは無用の港を開設するのを嘲っているようでもあれば、工事の遅延して港にならないのを嘲っているようでもあった。小右衛門は同行の武士を見た。それは大島政平《おおしままさへい》と云うお馬廻《うままわり》であった。
「政平、どうじゃ」
政平は莞《にっ》とした。
「なるほど」
「それとも、万劫魚《まんごのうお》でも飼うか」権兵衛の方をちらと見て、「今に大雨が降りゃ良え池ができる」
権兵衛は小右衛門の詞《ことば》の意《いみ》がはっきり判った。権兵衛はじっと考え込んだ。小右衛門と政平の二人は、すぐ馬の傍へ往って馬に乗った。
「権兵衛、精出して池を掘れ」
権兵衛が驚いて挨拶しようとした時には、馬はもう走っていた。権兵衛を追って来て遠くの方に控えていた総之丞が其の時寄って来た。
「殿様は、どうなされました」
権兵衛は何も云わなかった。
四
権兵衛は普請役場の内にある己《じぶん》の室《へや》にいた。其処は八畳位の畳も敷き障子も入っているが、壁は板囲の山小舎のような室であった。そして、室の一方には蒲団を畳んで積み、衣類を入れた葛籠《つづら》を置き、鎧櫃《よろいびつ》を置き、三尺ばかりの狭い床には天照大神宮《てんしょうだいじんぐう》の軸をかけて、其の下に真新しい榊《さかき》をさした徳利を置いてあった。権兵衛は其の床の前の小机の傍にいた。其の小机には半紙を二枚折にした横綴《よことじ》の帳面を数冊載せてあった。
権兵衛は思い詰めた顔をして考えこんでいたが、やがて何か考えついたようにして手を鳴らした。するとすぐ近くで返事があって、廊下にした板の間へ顔を出した者があった。磯山清吉《いそやませいきち》と云う下僚《したやく》で壮《わか》い小兵《こがら》な男であった。
「お呼びになりましたか」
「呼んだ」
「何か御用でございますか」
「総之丞はおるか」
「浜の方へ出て往きましたが、何か御用が」
「それじゃ、総之丞でなくてもええ、神様のお祭をするから、白木の台と、あ、台は普請初めの時にこしらえたものがある、それから雉子《きじ》か山鳥が欲しいが、それは無いかも知れんから、鶏の雌と雄を二羽買い、蜜柑も柿もあるまいから、芋でも大根でも、畑に出来る物を三品か四品。幣束《しで》も要る、皆《みんな》と相談して調《ととの》えてくれ」
「何時《いつ》お祭をします」
「すぐ今晩するから急いでくれ」
「何処でします」
「港の口じゃ。供物が出来たら、港の口へ幕を張って、準備《したく》をしてくれ」
「よろしゅうございます」
清吉が往こうとすると権兵衛が留めた。
「待て」
「へい」
「それから、供物の台は、沖の方へ向けて、つまり海の方へ向けるぞ」
「承知しました」
「普請初めの時のようにすればええ。判らん処があれば、総之丞が知っておる、総之丞に聞け」
「よろしゅうございます」
「それから、松明《たいまつ》の準備《したく》もしておいてくれ」
落日に間のない時であった。清吉は急いで出て往った。権兵衛は腕組みして考えこんだ。廊下へ武次がどかどかと来た。
「旦那、湯が沸いたが」
権兵衛は顔をあげた。
「湯か」
「後がつかえるから、早《はよ》う入ってもらいたいが」
「俺は今日は、入らん、今井《いまい》さんに入れと云え」
「殿様が来ておるに、湯に入って垢《あか》を落とせばええに」
武次はまだ何か云いながら往ってしまった。権兵衛は口元に苦笑をからめたが、すぐまた考えこんだ。
その時浜の方で法螺《ほら》の音がしはじめた。人夫に仕事を措《お》かす合図であった。仕事を措いた人夫が囂囂《がやがや》云いながらあがって来た。人夫は地元の者もあれば、隣村の者もあり、また遠くから来て小舎掛をして住んでいる者もあった。
五
間もなく夜になった。其の夜は月がないので暗かった。其の夜の八時《いつつ》すぎになって堰堤の突端に松明の火が燃えだした。其処には明珍長門家政《みょうちんながといえまさ》作の甲冑《かっちゅう》を著《つ》けて錦の小袴を穿《は》き、それに相州行光《そうしゅうゆきみつ》作の太刀を佩《は》いた権兵衛|政利《まさとし》が、海の方に向けてしつらえた祭壇の前にひざまずいていた。そして、其の周囲《まわり》には一木家の定紋《じょうもん》の附いた紫の幔幕《まんまく》を張りめぐらしてあった。
「どうか私の此の体を犠牲《いけにえ》に御取りくださいまして、釜礁《かまばえ》を除くお赦《ゆるし》を得とうございます」
下僚《したやく》たちは権兵衛が云いつけてあるので何人《たれ》も傍に来ている者がなかった。
「此の礁が一日も早く除《と》れまして、此の荒海を往来する諸人《もろびと》をお助けくださいますようにお願いいたします。こうして犠牲《いけにえ》に献《あが》りました私の生命《いのち》は、速刻お召しくださいましても厭《いと》うところでございません」
権兵衛は一人で朝まで祈願をこめていた。朝になって室戸岬の沖あいから朝陽が杲杲《きらきら》と登りかけたところで、人夫たちが集まって来た。
人夫たちは左右の堰堤を伝って己《じぶん》の持場につこうとしていた。礁の方にかかっている五六十人ばかりの人夫は其処からおりるべく祭壇の近くへ来た。それと見て権兵衛は幔幕の一方を解いて姿をあらわした。人夫たちは甲冑の武者を見て驚きの眼をそばだてた。
「あ」
「何事じゃ」
「何人《たれ》じゃ」
「彼《あ》の
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