黒い雲が海の上に垂れさがっていたので暗かった。八時《いつつ》すぎになって港の左側の堰堤の上に松明《たいまつ》の火が燃えだした。其処には権兵衛が最初の祈願の時の武者姿で、祭壇を前にして額《ぬか》ずいていた。
「わたくしの体が痺れたは、竜王が犠牲《いけにえ》をお召しになる事と存じますから、喜んで此の身をさしあげます」
 権兵衛はまず冑《かぶと》を除《と》って海へ投げた。蒼黒い海は白い歯を見せてそれを呑んだ。権兵衛はそれから鎧《よろい》を解いて投げた。冑も鎧も明珍長門家政の作であった。権兵衛はそれから太刀を投げた。太刀は相州行光の作であった。
 翌朝になって下僚《したやく》の者が往ったところで、権兵衛は祭壇の前で割腹していたが、未明に割腹したものと見えて、錦の小袴を染めている血に温《あたたか》みがあった。
 村の者はそれと聞いて慟哭《どうこく》した。そして、血に染まった権兵衛の錦の小袴を小さく裂いて、家の守神にすると云って皆《みんな》で別けあうとともに、その遺骸を津寺に葬って香華《こうげ》を絶《たや》さなかった。
 それが明治維新になって、神仏の分離のあった時、其の墓石を地中に埋めて、其の上
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