土鍋に入れたお粥や膳を置いてあるが、病人が手をつけないのか、茶碗も汚れてゐなければ、小皿に盛つた味噌もそのまゝになつてゐる。
「小父さんの所から、誰かが来て、世話をしてゐるのか、それとも西隣のお松婆アさんでも来て、見てくれるだらうか、本当に可愛想だ、」
男は不意に顔をあげて何処を見るともなく眼をきよときよとさした。
「なる程、芳夫の云ふ通り、おかしな病気にかゝつてる、これはどうかしないといけない、」と相談しようと思つて声をかけやうとしてゐると不意に男の眼が光つた。男はうなり声を立てた。
「貴様は、あの怪物か、やつて来たな、」
「私は、お高ですよ、気を沈めておくれ、」
悲しくて泣きたいのをじつと忍へた。
「怪物だ、怪物だ、俺を悩ましにやつて来たな、」
男は恐ろしい顔して睨み詰めた。
「源ちやん、源ちやん、気を確に持つておくれ、お高だよ、」
「そのお高が怪物だ、一昨日の晩、正体を見届けた、怪物奴、」
「怪物ぢやないよ、お高だよ、気を確に持つておくれよ」
「まだそんなことを云ふか、怪物奴、」
「まア、お前さんは、」
男は獣のやうに飛びあがつた。
「この怪物奴、」
お高は自分の立てた大声が耳に這入つた。彼は頬杖を放して顔を畳の上に落したところであつた。彼は急いで顔をあげながら眼を開けてあたりを見た。庭の花壇の傍で水をやつてゐた下男の作平爺が、如露を持つたなりに振り返つて、不思議さうに此方を見てゐた。
薄暗いランプの光りを受けた眼がぎらぎらと光つた。
「また来やがつたな、怪物奴、」
何故自分を怪物だなどと云ふうだらうとちよつと考へてみたが判らない。
「何故、そんなことを云ふの、お高だよ、怪物ぢやないよ、」
「怪物だ、正体をちやんと見届けてあるぞ、」
「何を見届けたの、云つておくれ、何んで私が、怪物だよ、」
「怪物だ、怪物と云つたら怪物だ、」
やはりそれも病気の所為だどうかしてこの病気が癒らないだらうか。
「病気だよ、お前さん、病気だから、そんなことを云ふんだよ、早く病気を癒しておくれ、」
「まだ、そんなことを云ふか、この怪物、殺してしまうぞ、」
一層殺して貰ふた方が好い死んでしまへばこんな苦しいこともない。
「殺されても好いよ、私は殺されても好いが、お前さんの病気が心配だ、早く癒しておくれよ、お金は私がどうでもする、」
「この怪物、本当に殺してしまふぞ、」
男はまた飛び起きてしまつた。
「何をするんだよ、何を、」
彼は驚いて体にまつはつた男の手を振り放さうとした。と、激しい圧迫が肩のあたりにあるのに気が付いた。
「おい、おい、どうしたんだ、夢を見たんだな、眼を覚ますが好い覚ますが好い、」
太い青黒い顔が此方を見て口元を黄色くさしてゐた。お高は吐息をした。
「夢を見たのか、」
「ええ、厭な夢を見ました、」
「どんな夢だ、」
青黒い顔は笑ひ声をさした、酒臭い臭がふはりと鼻に滲みた。
「判らないが、厭な夢でしたよ、」
お高は青黒い顔から眼をそらして、天井の方を見た。白い蚊帳に青いランプの光がぼんやりと射してゐた。
便所から帰つて来て床に這入つた青黒い顔の男は、右側の蒲団にくるまつて寝てゐる女の横顔に眼をやつた。蚊帳越しに青く射したランプの光は女の顔を綺麗に見せてゐた。女は何か云つてゐるやうに口元を動かしてゐた。
「また、今晩も、何か夢を見てゐるんだな、」と男は笑ひ心地になつて見てゐた。男の眼は綺麗な透通るやうに見える女の顔から離れなかつた。
その時女は唸るやうな叫び声を出した。
「おい、おい、どうした、どうした、」
「大変です、大変です、助けてください、」
「夢だよ、夢だよ、夢を見てゐるから、起きるが好い、」
「助けてください、助けてください、殺しに来たんですよ、殺しに、」
「夢だよ、夢だよ、夢を見てゐるんだよ、それ、夢だから覚めるが好い、」
女は男に取り縋つた手を緩めた。
「夢だよ、夢を見てゐたんだ、誰が殺しに来るもんか、」
「夢でせうか、」
「夢だよ、誰に追つかけられたんだ、」
女はちよつと黙つてゐた。
「誰やら判らないが、変な男に、殺すと云つて追つかけられたんですよ、私が怪物だから、」
男は笑ひ出した。
二人は間もなく眠つたが眠つてゐる中に、何か物音が耳についたので青黒い顔の男がふと眼を開けた。傍に寝てゐる女の枕元に一人の男が突立つてそれが右の手に刃物を持つてゐた。ランプの光りはその刃先を染めた恐ろしい血の色を見せた。
青黒い顔の男は大声をたてながら蚊帳の外へ飛び出して逃げた。
三
源吉は桑と唐黍との間に挾まつた小路を歩いてゐた。陽が入つたばかりの西の空には黄色な夕映が残つて頭の上に二三羽の燕が低く飛んでゐた。
源吉は生れて初めて見る土地のやうにしてあたりを見ながら歩いてゐた。一度破損した頭は三年間の病院生活にも癒つてゐなかつた。彼はぼうとした気持ちになつてゐた。さうした彼の眼は唐黍の葉に行き桑の葉に行き畑の端の人家の屋根に行き黄色な雲の浮んだ空にと行つた。二声三声鳴いた牛の声は耳に入らなかつた。
村の本通に出て荒物屋の前へ行つた時、中から一人の老婆が四合ビンに酒のやうなものを買つて出て来たが、出合頭に源吉と顔を見合はした。源吉にはその老婆の顔が何人であるのかちよつと思ひ出せなかつたが、老婆の方には直ぐ判つたのか茶色の眼を光らして突つかゝるやうに進んで来た。
「やい源吉ぢやないか、どの面さげて帰つて来た、この鬼、畜生、」
源吉は驚いて眼を見張つた。
「何人だ、お高さんとこのおつ母か、」
「よく覚えてるな、畜生、鬼、何の恨みがあつてお高を殺したんだ、云つてみろ」
老婆はもう涙声になつてゐた。源吉は驚いて口をもぐもぐさした。
「この鬼、畜生、何の恨みがあつてお高を殺した、さア云へ、その恨みを云へ、」
「小母さん、お前は何を云ふんだ、俺がお高さんを殺した、」
「白ばくれるな、その手でお上を欺したらう、本当なら、手前は人を殺したから殺される所だが、偽狂人になりやがつて、俺はその手には乗らんぞ」
「小母さん、それでは俺がお高さんを殺したのか、」
「白ばくれるな、鬼、畜生、偽狂人になつて、よくもよくも殺したな、お高の仇は俺が打つぞ、」
源吉は青い顔をして考へ込んだ。
「さあ、訳を云え、訳を聞いてやる、」
源吉は片手をあげて老婆の言葉を押へるやうにした。
「小母さん、待つてくれ、俺は白ばくれもせん、嘘も云はん、本当に俺は何も知らなかつた、何のために狂人病院へ這入つたのか、ちつとも判らなかつた、伯父も何も云つてくれない、昨日帰つたから、落ちついたなら聞かうと思つてをつた、さうか、それは、」
源吉は大きな呼吸を吐いて俯向いたなりにまた考へ込んだ。
「人の娘を殺しあがつて、知らなかつたもよく云へた、まだ手前にも云ひたいこともあるが、また今度にする、」
老婆は気が折れたやうに源吉を離れて向ふの方へ歩き出した。もう薄暗くなつてゐた。荒物屋の前にも二三人反対の側にも五六人の者が立つて二人の容子をぢつと見てゐた。
源吉はやつと顔をあげて老婆の行つた方を見た。老婆の姿はもう見えなかつた。その源吉の眼に青い月の光の漂うた海岸の松原が見え麦の穂が見え緑の桑の葉が見え別荘の土手が見え土手の上の薔薇の花が見えた。重くどろんだ波の音もした。源吉はぢつと立つて不思議な物の影に見入つてゐたがやつと気が付いたやうに後の方へと引返した。その源吉の姿が左側の入口に燈火の見える家の角に消えて行くまで、まはりに立つてゐた人々は不安な眼付をして見送つてゐた。
源吉はその夜の中に、氏神の森の木に、死骸となつてさがつてゐた。
底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社
2003(平成15)年10月22日初版発行
初出:「黒雨集」大阪毎日新聞社
1923(大正12)年10月25日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2009年8月12日作成
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