つた。さう思つてから彼は苦笑した。
 ……暗い森の中で二人は大きな松の幹に凭れて泣いてゐた。
「芳松を一人前の男にしてやるためだ、お前も諦めろ、好いか、家のことを忘れてはならんぞ、」
「で、源ちやんは、どうする、」
「どうするもんか、俺も今云つたやうに、樺太へ人夫に雇はれて行く、」
「何時行くの、」
「明日の朝、一番の馬車で、停車場まで行くことにして、馬車屋へ行つて、もう約束をして来た、」
「私も一緒に行きたい、行つては悪い?」
「連れて行つて好いやうなら、お前の家のことを思はないなら、どんなことでもして、お前と一緒になる、それも芳公さへなけりや、どうでも好いが、芳公が可愛想だ、俺も諦めた、お前も諦めろ好いか、家のためぢや、つまらん気を出してはいかんぞ、」
「あい、」
「では、もう別れよう、俺は池の傍を通つて帰る、お前は鳥居を抜けて行くが好い、」
 女は源吉をつかまへて離さうとはしなかつた。
「源ちやん、」
「なんだ、」
「源ちやん、」
「もう好い、何も云ふな、綺麗に別れよう、」
 源吉はその手を無理に押しのけるやうにした。
「源ちやん、」
「よし、判つた、云ふな、もう何事も心の中に押し付けてしまはう、」
 女は執拗く源吉に寄りそつた。……源吉は気がつくとびつくりしたやうに裏門の前を離れ、海岸の方へ通じてゐる赤土を敷いた路へと折れて行つた。
 重どろんだ波の音がして雲にぼかされた月の光が海岸を靄立たして見えた。源吉は浜防風のあぎた砂山の踏みごたへのしない砂を踏んでゐた。
 砂山をおりると松原の暗い路が来た。蜘蛛の足を張つたやうな松の根が其処此処に浮き出てゐた。源吉はその松の根をよけ/\歩いた。
 暗い松の蔭の先に赤土の路が見えた。路の左右には桑畑が灰色になつてゐた。その見付には土手の間になつた裏門の扉が見えた。それは生暖かな天気の狂ひを思はせるやうな晩であつた。源吉はまだ何処かに人の足音がしはしないかと注意したのであつた。しかし間遠く鳴く波の音ばかりで足音らしいものは聞えなかつた。彼はまた安心したやうに歩き出した。
 源吉の足は直ぐ止つてしまつた。
「どうも男らしくないぞ、去年、あれと別れた時に、男らしいことを云つて、さつさつと樺太へ行つておきながら、この様はどうだ、もう今晩で、四晩も五晩も、人の眼を盗んで、そつとこの別荘の傍へやつて来てゐる、何のためにやつて来た、
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