《おれ》の首が落ちてやしないか」
「そうですねえ、船べりで煙管《きせる》を叩くと、よく雁首《がんくび》が川の中へ落ちますよ」
「そうじゃない、俺の首だよ、何処にも傷が附いてやしないか」
「じょうだん云っちゃいけませんよ、何で傷がつくものですか」
やがて新三郎は船を急がせて帰って来たが、船からあがる時、
「旦那、こんな物が落ちておりますよ」
と云って、伴蔵のさしだした物を見ると、それはさっき夢の中でお露から貰った彼《か》の秋草に虫の象眼のある香箱の蓋であった。
二
新三郎は精霊棚《しょうりょうだな》の準備《したく》ができたので、縁側へ敷物を敷き、そして、蚊遣《かやり》を焚《た》いて、深草形の団扇《うちわ》で蚊を追いながら月を見ていた。それは盆の十三日のことであった。新三郎はその前月、久しぶりに尋ねて来た志丈から、お露が己《じぶん》のことを思いつめて、其のために病気になって死んだと云うことを聞いたので、それ以来お露の俗名《ぞくみょう》を書いて仏壇に供え、来る日も来る日も念仏を唱えながら鬱《うつ》うつとして過しているところであった。
と、生垣の外からカラコン、カラコンと云う下駄の音が聞えて来た。新三郎はやるともなしに其の方へ眼をやった。三十位に見える大丸髷《おおまるまげ》の年増《としま》が、其の比《ころ》流行《はや》った縮緬細工《ちりめんざいく》の牡丹燈籠を持ち、其の後から文金の高髷《たかまげ》に秋草色染の衣服を著《き》、上方風の塗柄《ぬりえ》の団扇《うちわ》を持った十七八に見える※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な女が、緋縮緬《ひぢりめん》の長襦袢《ながじゅばん》の裾《すそ》をちらちらさせながら来たところであった。新三郎は其の壮《わか》い女に何処かに見覚えのあるような気がするので、伸びあがるようにして月影にすかしていると、牡丹燈籠を持った女が立ちどまって此方《こちら》を見たが、同時に、
「おや、萩原さま」
と云って眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。それは飯島家の婢《じょちゅう》のお米《よね》であった。
「おやお米さん、まあ、どうして」
新三郎は志丈からお露が死ぬと間もなくお米も死んだと云うことを聞いていたので、ちょっと不思議に思ったが、すぐこれはきっと志丈がいいかげんなことを云ったものだろうと思って、
「まあお入りなさい、其処の折戸をあけて」
と云うと二人が入って来た。後の壮《わか》い女はお露であった。お米は新三郎に、
「ほんとに思いがけない。萩原さまは、お歿《な》くなり遊ばしたと云うことを伺っていたものでございますから」
と云った。そこで新三郎は志丈の云ったことを話して、
「お二人が歿くなったと云うものだから」
と云うと、お米が、
「志丈さんがだましたものですよ」
と云って、それから二人が其処へ来た理《わけ》を話した。それによると平左衛門の妾《めかけ》のお国《くに》が、某日《あるひ》新三郎が死んだと云ってお露を欺したので、お露はそれを真《ま》に受けて尼になると言いだしたが、心さえ尼になったつもりでおればいいからと云ってなだめていると、今度は父親が養子をしたらと云いだした。お露はどんなことがあっても婿はとらないと云って聞かなかったので、とうとう勘当同様になり、今では谷中《やなか》の三崎《みさき》でだいなしの家《うち》を借りて、其処でお米が手内職などをして、どうかこうか暮しているが、お露は新三郎が死んだとのみ思っているので、毎日念仏ばかり唱えていたのであった。そして、お米は、
「今日は盆のことでございますから、彼方此方《あっちこっち》おまいりをして、晩《おそ》く帰るところでございます」
と云った。新三郎はお露が無事でいたので喜《うれ》しかった。
「そうですか、私はまた此のとおり、お嬢さんの俗名を書いて、毎日念仏しておりました」
「それほどまでにお嬢さまを」思い出したように、「それでお嬢さまは、たとえ御勘当になりましても、斬《き》られてもいいから、萩原さまのお情を受けたいとおっしゃっておりますが、今夜お泊め申してもよろしゅうございましょうか」
それは新三郎も望むところであったが、ただ孫店に住む白翁堂勇斎《はくおうどうゆうさい》と云う人相観《にんそうみ》が、何かにつけて新三郎の面倒を見ているので、それに知れないようにしなくてはならぬ。
「勇斎と云うやかましや[#「やかましや」に傍点]がいますから、それに知れないように、裏からそっと入ってください」
そこでお米はもじもじ[#「もじもじ」に傍点]しているお露を促《うなが》して裏口から入り、とうとう其処で一泊した。そして、翌日はまだ夜の明けないうちに帰って往ったが、それからお露は毎晩のように新三郎の処へ来た
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