》をしのばせながら、折戸の処へ往った。と、お露が顔をあげて此方《こっち》を見たが、急に其の眼がいきいきとして来た。
「あなたは、新三郎さま」
お露も新三郎を思って長い間|気病《きやま》いのようになっているところであった。お露はもう慎みを忘れた。お露は新三郎の手を執《と》って蚊帳の中へ入った。そして、暫《しばらく》くしてお露は、傍にあった香箱を執って、
「これは、お母さまから形見にいただいた大事の香箱でございます、これをどうか私だと思って」
と云って、新三郎の前へさしだした。それは秋野に虫の象眼の入った見ごとな香箱であった。新三郎は云われるままにそれをもらって其の蓋《ふた》を執ってみた。と、其処へ境の襖《ふすま》を開けて入って来たものがあった。それはお露の父親の平左衛門であった。二人は驚いて飛び起きた。平左衛門は持っていた雪洞《ぼんぼり》をさしつけるようにした。
「露、これへ出ろ」それから新三郎を見て、「其の方は何者だ」
新三郎は小さくなっていた。
「は、てまえは萩原新三郎と申す粗忽《そこつ》ものでございます、まことにどうも」
平左衛門は憤《おこ》って肩で呼吸《いき》をしていた。平左衛門はお露の方をきっと見た。
「かりそめにも、天下の直参の娘が、男を引き入れるとは何ごとじゃ、これが世間へ知れたら、飯島は家事不取締とあって、家名を汚し、御先祖へ対してあいすまん、不孝不義のふとどきものめが。手討ちにするからさよう心得ろ」
新三郎が前へ出た。
「お嬢さまには、すこしも科《とが》はございません、どうぞてまえを」
「いえいえ、わたしが悪うございます。どうぞわたしを」
お露は新三郎をかばった。平左衛門は刀を脱《ぬ》いた。
「不義は同罪じゃ、娘からさきへ斬る」
平左衛門はそう云いながら、いきなりお露の首に斬りつけた。お露の島田首《しまだくび》はころりと前へ落ちた。新三郎が驚いて前へのめろうとしたところで、其の頬《ほお》に平左衛門の刀が来た。新三郎は頬から腮《あご》にかけて、ずきりとした痛みを感じた。
「旦那、旦那、たいそう魘《うな》されてますが、おっそろしい声をだして、恟《びっく》りするじゃありませんか、もし旦那」
新三郎は其の声に驚いて眼を開けた。伴蔵が枕頭《まくらもと》へ来て起しているところであった。新三郎はきょろきょろと四辺《あたり》を見まわした。
「伴蔵、俺
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