右の手は此方の左の手首に絡つてゐた。
「お前さんは何所だね、」
「私、愛知県よ、」
「では、名古屋かね、」
「名古屋の在ですよ、」
「兄弟があるかね、」
「えゝ、兄が二人と、妹が一人あるんですよ、お百姓よ、」
「お前さん、何処かへお嫁にでも行く約束があるの、」
「そんな所ありませんわ、」
「ないことはなからう、お前さんのやうな好い女を、そのままにはしておかないよ、」
「行く所がなくつても、好い人はあるだらう、」
北村さんはあつさりと云つたが、此方の手首に絡んでゐた北村さんの手はほてつてゐた。
「私のやうな者は見向いてくれる方もないんですよ、」
「あるよ、あつたらどうする、……あつたら困るだらう、」
「あつたら有難いんですわ、」
「本当、」
北村さんの眼は此方の眼をまともに見詰めた。……
「をかしいよ、お菊さんはまた考へ込んだよ、あ、あれだよ、お菊さんは……、」
お幸ちやんの声がするので、お菊さんは夢から覚めたやうにしてその方を見た。お幸ちやんは学生に首づたへ手をやられたなりに、学生と並んで板壁に凭れて笑つてゐた。
「お幸ちやんぢやあるまいし、あたいにや、若旦那は無いんだよ、」
「あるわよ、針工場さんがあるわよ、」
「馬鹿、」
お菊さんは云ひ当てられたので、ちよつと気まりが悪るかつた。
「好いわよ、そんなに気まりを悪るがらないだつて、」
お幸ちやんの首つたまを抱いてゐる学生が口を挟んだ。
「針工場つて、何人だい、あの肥つた親爺かい、好く祝儀をくれる、」
「さうよ、針工場の旦那よ、親爺なんて云ふとお菊さんが怒つてよ、」
も一人の学生がそれを聞くとお菊さんの方を見て云つた。
「針工場夫人、此所へお出でよ、お祝に一杯あげやう、」
お菊さんはてれかくしに、
「さう、くださるの、」
と云つて腰をあげて、そのテーブルの方へ歩いて行きかけたところで、痩せた手でカーテンの端を捲つて入つて来た者があつた。背のひよろ長い黒い著物を着た、頬のすつこけた老婆であつた。それは一眼見て料理を注文に来た客であると云ふことが判つた。
「ゐらつしやいまし、」
お菊さんがそのまゝ老婆の前へ行つて立つた。
「出前を頼みたいが、」
お菊さんは見知らないはじめての客であるから、先づ所を聞いた。
「何方様でございませう、」
「はじめてですがね、この先の赤いポストの所を入つて、突きあたつてから
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