「それがどうしたんだ、」
「面白いのよ、昨夜……、」
お幸ちやんはそれから声を一段と小さくして話しだした。お菊さんはまた入口の方に眼をやつて北村さんのことを考へだした。お菊さんの眼の前には、肥つた色の青白い、丸顔の線の軟らかなふわりとした顔が浮かんでゐた。この月になつて雨が降りだした頃から来はじめた客は、魚のフライを注文して淋しさうにビールを飲んだ。
「此所は面白い家だね、これからやつて来るよ、」
と客が心持好ささうに云ふので、
「どうぞ、奥さんに好くお願ひして、ゐらつしやつてくださいまし、」
と笑ふと、
「私には、その奥さんが無いんだ、可愛さうぢやないか、」
客は金の指環の見える手でビールのコツプを持ちながら笑つた。
「御冗談ばつかし、」
「冗談ぢやないよ、本当だよ、先月亡くなつたんだよ、だからかうして飲みに来るんぢやないか、」
その云ひ方が何方かしんみりして嘘のやうでないから、涙ぐましい気持になつた。
「本当、」
「本当とも、だから可愛がつてくれないといけないよ、」
「お気の毒ですわ、ね、え、」
「お気の毒でございますとも、」
客は淋しさうに笑つて飲んでしまつたコツプをくれた。
「一杯ささう、おなじみになる標だ、」
「さう、では、ちよと戴きます、」
「ちよつとは駄目だよ、多く飲まないと忘れて標にならないよ、」
客はビール壜を持つてなみなみと酌をしてくれた。
「では、どつさり戴きます、」
その客は北村さんと云ふ客であつた。
「すぐこの近所でございますの、」
「すぐ其所だよ、先月越して来たばかしなんだ、深川の方にゐてね、」
「大変遠方からいらつしやいましたね、」
「さうだ、深川の方で工場をやつてたが、厭になつたからね、家に使つてる奴に譲つてしまつたんだよ、」
もしかすると奥さんが亡くなつたので、それで何をするのも厭になつて、この山の手に引つ込んだのぢやないかと思つた。
「人を使つてやる仕事は煩さいもんでね、金にはかかはらないよ、」
「さうでございませうね、」
なんの工場であつたか知りたかつたので、
「なんの工場でございます、」
「つまらん工場さ、針工場だよ、」
針工場の意味が判らなかつた。
「針工場つて、どんなことをする工場……、」
「メリヤスを織る針だよ、」
他に何人も客がなくて、それでお幸ちやんが出前を持つて行つたことがあつた。北村さんの
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