帽子にも鉄色の絽の羽織の肩のあたりにも雨の水が光つてゐた。
「大変でしたわ、ね、」
 その客を入口の左側、浪花節の若衆のゐる所へ坐らせた。
 客はウイスキーと野菜サラダを注文した。彼がその注文を聞いて客の傍を離れようとした時のことであつた。今晩の虫と変らない一匹の蛾がその客の襟元にでも這つてでもゐたかのやうにひらひら飛んだ。汚い虫が羽にくつ付けた粉をお客さんの皿の中や飲み物の中へ落してはならないと思つて、飛びあがるところを手ではたかうと思つたが、はしたない手付きをしてさげすまれるのは嫌だと思つたので、
「あれ、蝶だ、蝶だ、」
 と云つて、もどかしさうに見た。
「蝶だ、蝶だ、」
 隣のテーブルで洋服の上着を脱いで白いシャツに[#「シャツに」はママ]なつて歌つてゐた二人連の若い男の一人が、扇を持つて立ちあがりながら体を向ふ斜に延ばした。
「こら、蝶だ、」
 扇の先が蛾に届きさうになつて見えた。と、綺麗な顔の客は立ちあがつて手を延べた。
「俺が逃がしてやらう、」
 蛾はその客の掌に直ぐ入つて来た。客は手を壺のやうにすぼめて中に入つてゐる蛾を覗くやうにした。
「可愛い虫ぢやないか、人間は邪見だよ、」
 独言を云ひながら入口へ出て行つて暗い方を向いて立つた。
「それ、帰つてをれ、」
 引返して来た客の眼が潤んだやうに輝いて見えた。……
 なんと云ふ優しい方だらう、と、お幸ちやんは思つた。お幸ちやんは不作法なことをして、さげすまれてはならないと思つたので、丁寧にコツプをその前へ持つて行つた。
「お待ち遠うでございます、料理はすぐ出来ます、」
 さう云ひながら眼を客の手にした虫に注けた。客は掌の中に蝶を透すやうにしてゐた。
「あの晩も蝶が来ましたね、蝶と御縁がありますのね、」
「ああ、さうだね、この間も来たね、しかし、蝶と御縁があつたところで仕方がない、姐さんとでなくつちや、」
「御戯談ばつかり、」
 お幸ちやんは娘々した声をして笑つた。
「おい、なんだい、嫌な声をするぢやないか、酒だい、ビールを持つて来い、」
 浪花節の若衆が頬杖をしたまま怒鳴つた。お幸ちやんはその声に体を包んでゐた暖な靄が消えたやうな気がした。
「まだ飲むの、そんなに飲んでて、」
「ふざけるない、」
 お幸ちやんは笑ひながらまた暖簾をくぐつたが、今度出て来た時には右の手に料理の皿を持ち、左の手に口を切つたビー
前へ 次へ
全11ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング