荷花公主
田中貢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)南昌《なんしょう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)ある日|西湖《せいこ》の縁を歩いていた
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南昌《なんしょう》に彭徳孚《ほうとくふ》という秀才があった。色の白い面長な顔をした男であったが、ある時、銭塘《せんとう》にいる友人を訪ねて行って、昭慶寺《しょうけいじ》という寺へ下宿していた。
その彭は、ある日|西湖《せいこ》の縁を歩いていた。それは夏の夕方のことで、水の中では葉を捲いていた蓮の葉に涼しい風が吹いて、ぎらぎらする夕陽の光も冷たくなっていた。聖因寺《せいいんじ》の前へ行ったところで、中から若い眼のさめるような女が出てきた。十七八に見える碧《あお》い着物を着た手足の細《ほっ》そりした女で、一人の老婆が後からきていた。その女の眼はちらと彭の顔へきた。
「あなたは、何所《どこ》からいらっしたのです」
彭が声をかけると女は恥かしそうに顔を赤らめたが、そのままその顔を老婆の方へやって、
「婆や、早く行きましょうよ」
と言ってからむこうのほうへ歩いた。彭は引きずられるように老婆の後から随《つ》いて行った。
すこし行くと女は斜に後ろを振り返って、老婆の横から彭を覗くようにした。女の気配に彭は顔をあげたが、その拍子に女の視線と視線が合った。女はきまり悪そうにあわてて前《むこう》をむいて歩いた。
女の眼の色に親しみを見出した彭は、非常に気が強くなってそのまま随いて行ったが、女も老婆も不思議に足が早いので、路の曲っている所などでは、ときどき二人の姿を見失いそうになった。
彭はすこしも油断することができなかった。孤山の麓にある水仙廟がすぐ眼の前に見えてきた。もう陽が入って西の空が真赤に夕映えていた。女と老婆は水仙廟の手前から廟に沿うて折れて行った。その二人の顔に夕映の色がうっすらと映っていた。
みるみる女と老婆は水仙廟の後ろへ行ったが、そのまま見えなくなった。彭は女の姿が見えなくなると、小走りに走って廟後へ着くなり、ぴったり走ることを止めて、そのまわりに注意して廻ったが、何所へ行ったのかもう影も見えなかった。
彭はしかたなしに其所《そこ》へ立ち止った。いつの間にか夕映も消えて四辺《あたり》が微暗《うすぐら》くなった中に、水仙廟の建物が黒い絵になって見えていた。
「おい、彭君じゃないか」
だしぬけに声をかけるものがあった。彭は吃驚《びっくり》して我に返った。それは霊隠寺《れいいんじ》へ行っていた友人であった。
「ああ君か」
「君は、いったい此所《ここ》で何をしているのだ」
彭は女を捜しているとも言えなかった。
「散歩に来たところなのだ」
「そうかね、じゃ、いっしょに帰ろうじゃないか」
彭は友人と同時《いっしょ》に帰ってきたが、女のことが諦められないので、翌日は朝から孤山の麓へ行って、彼方此方と探して歩いたがどうしても判らなかった。人を見つけて聞いてみても、何人《だれ》も知っている者がなかった。それでも思い切れないので、その翌日もまたその翌日も、毎日のように孤山の麓へ行って日を暮した。
彭はとうとう病気になって、飯もろくろく喫《く》わずに寝ているようになった。と、ある夜、扉を開けて入ってきた者があった。彭は何人《だれ》かきたとは思ったが、顔をあげるのも苦しいのでそのままじっとしていた。
「公主からお迎えにあがりました」
眼を開けて見ると、稚児髷《ちごまげ》に結《ゆ》うた女の子が燈籠を持って枕頭《まくらもと》に立っていた。しかし、彭は相手になるのが面倒であったから、ぐるりと寝返りして壁の方を向いた。
「貴郎《あなた》が、この間、水仙廟の所でお逢いになりました、公主からのお迎えでございます」
彭は急に体を起した。
「水仙廟で逢った公主というのですか」
「そうでございます、公主から貴郎のお供をしてくるようにという、お使いでございます」
「公主とは、どうした方です」
「いらしてくだされたら、お判りになります」
「では、行ってみましょう」
彭は起きて着物を調《ととの》えると、女の子は前《さき》に立って行った。外には月が出て涼しい風が吹いていた。燈籠の灯はその月の光にぼかされて黄いろく見えていた。
彭は生き返ったような軽い気もちになっていた。路は彼方に曲り此方に曲って行った。
「やっとまいりました」
彭はその声に顔をあげて見た。水仙廟の後ろと思われる山の麓に楼閣が簷《のき》を並べていた。女を尋ねて毎日水仙廟のあたりから孤山の頂にかけて歩いていた彭は、そんな楼閣を見たことがなかったので驚いた。
「公主のいらっしゃる所は、別院でございます、私がまいりますから、そっといらっしてくださいまし」
彭はうなずいてみせた。女の子はすぐ眼の前にあった朱塗の大きな門を入って、玉を敷いてあるような綺麗な路を行った。路の両側には花をつけた草や木が一めんに生えていた。椿のような花の木もあれば、牡丹のような大きな花をつけた草もあった。白い花をつけた高い木には、凌宵花《のうぜんかずら》のような黄いろな蔓草の花が星の落ちてきてかかったように咲いていた。花の梢から宮殿の簷が見えていた。
路は爪さきあがりにあがっていた。その路をすこし歩いていると、すぐなだらかな路になった。と、洞穴の口のように見える建物の入口がきた。その入口には「水晶城」とした額がかかっていた。建物の周囲には水があって、白や紅の蓮の花が月の光の中の下に夢見るように咲いていた。水に臨んで朱塗の欄干も見えていた。
女の子はその中へ入って行った。彭もそれに随いて行った。其所は窓という窓は皆水晶で、それに青白い月の光が射していた。公主といわれているかの女は欄干に凭《もた》れて月を観ていた。
「あの方《かた》を、お供してまいりました」
かの女は此方を見るなりすぐ体を起して寄ってきた。
「好奇《ものずき》の坊ちゃん、この四五日は、お見えにならないじゃありませんか」
女はにっと笑いながら彭の手に自分の手をかけた。彭はきまりが悪いので、微笑するだけで何も言えなかった。
「すこしお眼にかからない間に、こんなにお痩せになりまして」
女はこう言ってから傍に立っていた女の子の顔を見た。
「あの碧霞漿《へきかしょう》を一杯持っておいで」
女の子はちょっと頭をさげて次の室《へや》へ行ったが、すぐ盃を捧げ持ってきた。彭と手をとり合っていた女は、一方の手にそれを取って彭に渡した。それは紺碧の色をした甘い匂いのする物であった。
「これは緑蕚夫人《りょくがくふじん》から戴いた物でございます」
彭はそれを飲みながら不思議な周囲《まわり》にその眼を向けた。
「此所は何所でしょう」
「此所は広寒香界《こうかんこうかい》でございます、あなたのような俗人は、長く此所にいることはできないのです、早くお帰りなさい」
女は冗談に言って笑った。彭はもう何の遠慮もいらなかった。彼はいきなり女を抱きあげて綺麗な帷《とばり》の垂れている室の中へ入って行った。
已而菌縟流丹、女屡乞休始止。彭と女とはその後で話をした。彭は匂いのある女の体を撫でながら言った。
「貴女は、合徳《ごうとく》の生れかわりじゃないのですか」
女は艶めかしそうに笑った。
「貴郎は、物に怖れない方だから申しますが、私は水仙王の娘で、荷《はす》の花の精でございます、貴郎が情の深いことを知りましたので、こうしてお眼にかかることになりましたが、私は舅《おじ》さんの世話になっております、舅さんは非常に物堅い方ですから、もし舅さんに知られると、もうお眼にかかることができません、どうか舅さんに知られないように、夜そっといらして、朝も早く夜が明けない内に帰ってください」
「舅さんは、どうした方です」
「蟹の王ですよ、今この西湖の判官になっております」
朝になって寺の鐘が鳴り出したので、彭は急いで起きて帰ってきたが、それから毎晩のように行って朝早く帰った。
ある朝、二人が寝すごしたところで、女の保姆《うば》が来た。保姆はそれを見るとその足で判官に知らせに行った。それがためにあわてて起きて帰ろうとしていた彭は、判官の捕卒のために縛られてその前へ引き出された。判官は黒い頭巾《ずきん》をつけて緑の袍《ほう》を着ていた。
「曲者をひっ捕えてまいりました」
捕卒の一人は後退《しりごみ》する彭を判官の前へ引き据えた。彭はどんな目にあわされることかと思って生きた心地《きもち》がしなかった。判官はその容《さま》をにくにくしそうに見おろしていたが、何を考えたのか急に眼を瞠《みは》るとともに急いで堂の上からおりてきた。
「貴君《あなた》は私の恩人だ、これはあいすまんことをした弁解《もうしわけ》がない」
判官は急いで彭を縛った縄を解いたが、彭にはその意味が判らなかった。
「私はいつか貴君に助けられた者だ」
彭は女から舅さんは蟹の王であると言われたことを思いだした。彭はふと気が注《つ》いた。彼はある日、友人と二人で南屏《なんびょう》へ遊びに行ったが、帰ってくるとすぐ近くで網を曳いている舟があった。ちょうど網があがったところであったから、どんな魚が捕れるだろうと思って、中腰になって網の中を覗いた。網の中にはおおきな甲羅をした蟹が入っていて、それが紫色の鋏をあげて逃げようとでもするように悶掻《もが》いていた。彼にはこれまで曾《かつ》て一度も見たことのない蟹であった。彼は何かしらそれに神秘を感じたので、放してやろうと思って網舟の傍へ自分の舟を持って行かした。その結果、彭の銭が漁師の手に渡って、漁師の蟹が彭の舟にきた。彭の舟はやがて網舟を離れたが、再び漁師に獲られる危険のない所へくると蟹を水の中に入れてやった。蟹は大きな鋏を前で合わせて人が拱揖《れい》をするような容《さま》をして沈んでいった。…………
「さあどうか、おあがりくだされ」
判官が強《し》いて言うので彭は安心してあがった。
「姪《めい》の室に人がきているというので、貴君とは知らずに大変無礼をいたした。時に貴君は何方《どちら》の生れです」
「私は南昌の者で彭徳孚と申します」
「貴君は許婚《いいなずけ》の人でもありますか」
「ありません」
「では、良縁だ、私の姪と結婚して貰いたい」
彭はもとより望むところであった。その席には保姆もいた。判官は保姆に言いつけた。
「あれを呼んでこい」
保姆は公主を連れて入ってきた。女は恥かしそうにして顔をあげなかった。判官の夫人も其所へ入ってきた。
「この方が、わしの恩人じゃ、あれをお願いすることにした」
彭は女と結婚の式をあげて水晶館にいることになった。彭は琴が上手であった。彭が琴を弾《ひ》くと女はいつも傍で歌った。二人はこうした夢のような日を一年ばかり送ったが、その翌年の春、西湖の年中行事の一つになっている水遊びの日がきた。その日、西湖では舟の競争があるので、その見物をかたがけて遊びにくるものが多かった。彭も舟で女を連れて出かけて行った。
風のない暖かな日であった。前からそろそろと漕いできた一艘の舟があったが、その舟の中から声をかける者があった。
「彭君じゃないか」
彭は聞き覚えのある声を聞いて顔をあげた。それは銭塘の友人であった。
「やあ」
「君は、いったい何所を歩いてるのだ、君の家から手紙がきたから、僕はこの間中、君の居所を捜していたのだよ」
その時、舟と舟の小縁《こべり》がくっつくようになって、彭と友人とは手を握れそうになった。
「それはすまなかったね」
「では手紙を渡すよ」
友人は手にしていた手紙を此方の舟の中へ投げ込んだ。
「ありがとう」
「では明日にでもまた逢おう、やってきたまえ」
「ああ、行くよ」
舟は見る間に行き過ぎてしまった。彭は急いで手紙を開けて見た。それは母親の病気を知らしてきたものであった。
「母が病気だ」
彭は母の病気が心配になってきたが、しかし、女と離れるのが苦しいので困って考え込んだ。
「お母さんが御病気なら、お帰りにならなくち
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